水からの伝言:リターンズ 〜似非科学は何故消えないのか:文化人類学編〜

水からの伝言の話しもネット上ではだいぶ下火になってきたので、ゆっくり書いてみたいと思います。
まず、前回等の記事からも解るように私の立場は、「水からの伝言」については否定的な立場です。
また、科学は似非科学を完全否定できないと言う考えも持っています。
これは、常に科学は刷新され常に「反証可能性」という重しを付けているという「観測上正しい」と言う結果論が科学という立場だからです。
また、「水からの伝言」に限らずあらゆる似非科学に読み替えて読んでいただけると幸いです。
今回は、文化人類学から見た水からの伝言についてです。

フレイザーの呪術論

フレイザーの『金枝篇』では、呪術を2つに大別しています。
その原理の第一を類似の原理と呼んでいますが、これは似たものは似たものを生むと言うことです。逆に言えば、結果は原因に似ると言うわけです。第二は接触の原理と言いますが、これは、かつて互いに接触した物は離れたあとでも影響し合うと言う概念です。この二種類の原理に基づいて行われる呪術にも従って二種類の類型が生じるわけです。
第一の類似の原理から派生する呪術を「類感呪術」または「模倣呪術」と名付けています。類似の原理に基づいて考えると「ある結果が欲しければ、予めその結果に似たことを行えば良い」という考えられます。
例えば、農耕民族が日照りで困っている。雨が降らないと作物が枯死する。雨が降って欲しいと言う雨乞いの願いを込めて降雨儀礼が行われる。この儀礼の代表が、口に井戸水をふくんで空中に霧状に吹き出す。とか、神聖な木の枝を水に浸してその滴を空中に振りまくと言った。雨=水滴が空中から落下する。と言う動作を真似る呪術的行為です。
第二の接触の原理に基づく物は、「感染呪術」または「伝染呪術」と名付けられています。実例を挙げますと、狩猟民族が狩りに出かけると、まずは獲物となる動物の足跡を捜し、これを見つけると、その足跡に向って慎重な構えで槍を突き刺す。すると、跡をそこに残した当の動物の足にも槍傷が影響を及ぼして、動物はもはや遠くへは逃げなくなる。つまり、かつて接触していた足と足跡には影響を及ぼす力が残っていて、足跡に槍傷を付けることで当の獲物にも槍傷が影響を及ぼすという考えの呪術です。
我々の身近な話しだと、髪の毛とか爪とかへその緒などを粗末に扱うと、その害が当人に及ぶから、これを粗末に扱って傷つけたり焼いたりしてはいけないという禁忌、つまりタブーが生まれてくる。このような考え方に基づいた民間のしきたりも、感染・伝染の呪術の一タイプとして分類されます。
 
補足すると、第二の感染呪術は第一の類感呪術が前提として含まれることが多いです。例えば、古いしきたりで子どもの乳歯が抜け落ちると、その歯を天井裏や縁の下に投げ入れて「ネズミの歯と変えてくれ」というようなおまじないを唱えたりする地域があります。これなどは「ネズミの歯」という類感による呪術と感染呪術の側面である。抜け落ちた歯は未だに歯茎と密接な関係があり、生えてくる子どもの新しい歯にネズミの歯の強さが感染すると言う観念が組み合わさっています。他にも、丑の刻参りなどは、相手の身につけていたもの「髪の毛」や「衣服の端布」などを藁で作った人形に入れて行う呪術です。人型を模した類感呪術と、実際に当人が身につけていた物を入れるという感染呪術が使われているという概念です。

フレイザー以降に発見された呪術の種類

フレイザーは2個に大別しましたが、その後のフィールドワークなどで二つでは説明しきれないタイプの呪術も発見されました。
例えば、ジンクスなんて言うのがあります。「○○をしていたときに△△が起こった」だから、「△△に成りたいときは○○」をすればいい。と言う考えです。去年辺り有名に成った「ハンカチ王子のハンカチ」なんて言うのはこのハンカチを持っていた人が幸福になったからこのハンカチを持てばなんか良いことがあるんじゃないか? と言う考えが根底にあるわけです。このような呪術のタイプを「反復呪術」と言います。つまり、二度あることは三度ある。と言う考え方ですね。
他にも、力あるとされる呪術師が直接「飛んでいって敵を倒せ」などと槍に呟く事で、槍に命令するような呪術がありますがこれもまたフレイザーの2種類の呪術では分類できないタイプの物になります。このような呪術タイプを「直接呪術」と呼ぶ場合があります。
西洋に於いて13という数や金曜日がタブーとされていたり、日本では方角に吉凶があったり4という数値が凶であったりするのもこれらの中に分類されます。

また、別角度から見てホワイトマジックやブラックマジックという分け方や、作為による呪術か無意識による呪術かによって「邪術」や「妖術」と分けるなんて言う分類もあります。

呪術と科学

フレイザーによると、共感呪術の基礎となっている類似と接触という二つの原理は、そのまま観念連合の法則とまったく同じであると言います。
つまり、人間ガモのを考えるというのは、近くを媒介として成立した諸々の観念が複雑に連合して組織的な体型を作り上げていく過程に他なりません。
そして、この観念連合が正しく運営されていると「科学」を生み出しますが、誤って適用されると「呪術」を発生させます。フレイザーはこのように考えました。
科学とか学問とか言う物は、要するに観念の組織的な体系であり、数多くの関係諸概念が複雑に連合して成立している物に他ならない。この観念連合が、科学の場合には実験的に確かめられ、客観的に事実に妥当するような命題を形成している。所が、呪術の場合は同じく観念連合の働きによって物の見方が作り上げられているが、その連合がいわゆる希望的観測などを含んでいるため主観的にゆがめられ、事実に合致しない。根本的に誤った命題を生み出している。これが呪術における観念連合のあり方だというわけです。
フレイザーはこのようないい方をしています「呪術は、科学に対して脇腹の妹の位置にある」と――

で、結局何が言いたいのかというと

水からの伝言はつまりおまじないだろう?ってこと――
「良い言葉」という主観的要因が、共感呪術によって「綺麗な結晶」を作ると言う。良い=綺麗というのが類感呪術、音声だか音波によって水に与える影響というのが「感染呪術」だと言うこと。
そして、それが宗教のプレ段階であるという事。
呪術=プレ宗教の段階であることについては、宗教学という項目でいずれ取り扱う。
(タイラーによるアニミズム、マレットによるプレアミニズム、シュミットによって展開された原始一神教について述べる予定――。)

付け加えるならば、科学は宗教を否定できない。
なぜなら、そう言う棲み分けがされているからだ。