現代に残る呪術。

はてな村の「社会学」群「宗教」村クラスタに一領土を持っているので今日は、その辺の話をしてみましょう。今日のテーマは現代に残る「呪術」について考えていきたいと思います。
まずは、この記事を見て下さい。

無差別犯行を抑止する政策として銃刀法の強化を行う

東京・秋葉原の無差別殺傷事件の犯行に殺傷力が高いナイフが使われたことを受け、銃刀法の規制強化の在り方を検討する必要があるとの認識を示した。

殺人の現場が歩行者天国だったから歩行者天国のあり方を見直す動き

秋葉原の無差別殺傷事件を受け東京都千代田区は9日、緊急の幹部会を開き、事件現場となった「中央通り」の歩行者天国の在り方について議論していくことを決めた。


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呪術と因果律、または因果率という考えについて

さて、呪術とは何か? フレイザーも言うように分類すると「感染呪術」と「類感呪術」に分ける事が出来ますと言われています。ただ、これは分類であって「呪術」や「呪術的なもの」をいかに分別するかの答えになっていません。タイラーの分類も数直線上に一番端を「呪術」そしてもう片方を「宗教(儀礼・儀式)」としており、数直線のもう片方である「科学」についての関係への言及は弱いと思います。
では、まずは呪術とは一体どのようなものかを定義していきましょう。
基本的に、呪術は「因果律」を全肯定するところから始まります。そして、もうひとつは、因果の反転現象です。この二つを理解する事が呪術を理解する上で必要となる考え方です。
 
因果とは、仏教用語ですね「直接原因(因)」が「間接条件(縁)」によって「結果(果)」が発生する事を言うわけですが、哲学の用語としても、同じ事が言えます。哲学用語では「縁」は無視されています。
因果や因果律というのは有る側面において正しいのですが、原因があって結果があるという形式的な定常性は常に真たり得ます。
ただ、複雑きわまりない現実世界では、何重もの因果関係の連鎖や、要因間の双方向の相互関係が複雑に絡み合い、単純に因果関係を決定する事は出来ません。また、それが普通です。
昔は因果律は物理学の世界などの限られた分野でしか成立しないなんて思われていた訳ですが、現在ではその物理学の世界でもある現象を起こす条件は確率的にしか表現できない事が知られています(量子力学)。
ただ、量子力学では因果律が働かない、だから、古典力学は間違っているなんてあほくさい中二的な事は言いません。プランク定数を0にする極限へ近づければ近似値を取るわけですから。
これは、現実世界でも同様です。因果律は間違っているとは言いませんが、そのとりようはAで有ればBが発生すると一意に決める事が出来ないという事だけを言います。ただ、AであるならばBが発生する可能性が○○%の確率で発生するという言い方は可能でしょう。
つまり、現実世界において因果律は割合でしか求める事が出来ず。因果律と言うよりも因果率と言った方が分かり易いのではないかと思ったりします。

一方向性関数と現実世界

数学の世界では、一方向性関数というのがあります。計算は簡単にできるのに逆関数の計算は非常に困難な形式を取った関数の事を言います。
暗号理論の本に詳しい説明がありますので詳細は割愛しましょう。分かり易くたとえをあげると、素数(a)251と同じく、素数(b)271の積を求めるのは簡単だけど、68021(c)という結果から素因数分解して元のa,bを求めるのは、かけ算で求めたときよりも面倒だぞって言う事ですね。この片方が面倒になるような計算を一方向性関数と言うのですが、非常に現実世界に似ていると言えます。
つまり、結果(c)から、原因である(a)や(b)を求めるのは難しいという意味合いです。
 
科学の基本は原因を仮定して必ずCという結果が導き出せる事を、いわば「科学的手法」と言います。呪術の基本は因果を逆転し、Cという結果を導き出すには、Aという行動を取ればいいと言う思考をすることが呪術の基本と言えます。この発想の逆転の何処が悪いのかというと、Aという要因によってCが起きる確率が100%でない場合がほぼ大半だからです。CはAによって起きるがAならばCであるとは言えないのです。この辺は、形式論理学を知っているのならば簡単でしょう。「逆は必ずしも真ならず」という名言の通りです。逆が真になる条件は「A⇔C」である場合。つまりAとCが同じものである場合だけです。
この呪術的思考方法は、実際の呪術だけではなく「神話」や「昔話」にも応用されて登場してきます。

カラスが何で黒いのか? 神話学的な呪術思考

例えば、カラスがなぜ黒いのかと言った逆方向の推論をすると間違った解釈が生まれます。カラスが黒いという結果から理由を模索する手法ですね。この「結果から理由を模索する」という手法は往々にして誤りである場合が多いです。

日本の昔話

昔、全ての鳥は白一色だったのですが、フクロウが染物屋を始めて色々な鳥に様々な色が付いた。最後にやってきたカラスが様々な注文を後から後から行ったので、色々な染料が重ね塗りされて黒くなってしまった。失敗したなと思ったフクロウは逃げだし、怒ったカラスはフクロウを追いかけ、フクロウは逃げている内に夜に活動するようになった。

ギリシアの神話

カラスは、アポロン(太陽の神様))の手先だったのですが、ある日アポロンの嫁の不倫現場を目撃してそれを素直にアポロンに報告し、怒ったアポロンは嫁を焼き殺してしまいます。んで、我に返ったアポロンは「おまえが報告しなければ嫁を殺さずに済んだのに!」って逆ギレ(ヒドスw)。んで、アポロンの怒りの炎に焼かれたカラスは真っ黒になってしまった。


ってのが筋です。
共通するのは、「先にカラスという鳥は黒い」という結果から導き出す「原因」を「重ね塗り」だったり「神様の逆ギレで焼かれた(含む。日焼け説)」だったりと結果から原因を導出するという「倒置した因果関係」を説明しているから、変だって思えるわけです。
多くの呪術的思考もこれが根本に存在します。
 
また、多くの社会学的な考察というのもまた同じ過程を取っている場合が多いというのも確かです。

現代にも残る呪術思考

結局人間は、何かの現象について何らかの説明をしなければ気が済まないという心理が働きます。
それが、具体性を持たない理由であっても「不可思議な事に名前や原因を付ける」事で人間が仮初めの安逸を得るというのは昔からの伝統と言えます。
それは、時代に応じて変遷していき、昔は神や神霊の仕業とされ、江戸期に入れば妖怪や幽霊のせいに、そして、現代に入ればオタクや非モテのせいにといった具合です。
 
ただ、我々人間には科学的思考から切り離された、理由が(科学的に)分からない場合は、とりあえず安易なもののせいにして精神的な安楽を得る事の方が重要であると認識している、という事実について否定する立場にはありません。
ただ、心のどこかに本当の原因はこれじゃないよなって気持ちを持たせておくって事も重要なのではないかと考えます。