土曜日なのに!

仕事だYo! ウワァァァンヽ(`Д´)ノ
昨日のステレオタイプ科学者の4番目「真顔でジョークを言うので人に解って貰えない」に追加して、「そして、自分はジョークの才能がないんだと思い悩んでる」を追加するべきか?とかどうでも良いことを考えたり……。

似非科学は嫌いだけど、鍼は認めるというか実際効果あるしねぇって意味合いで、日曜日は知り合いの鍼灸院に行ってきます。
身体の疲れを速効で取ってくれるので、例えプラシーボでも何でも効けばOKという実利主義なんです。
東洋医学は経験主義の成果みたいなもので、原理は知らんけどこうするとこうなるっていうブラックボックスのような技術なんかな……。


これは、呪術なのか科学なのかという峻別は難しい訳です。
 
文化人類学者のエヴァンス=プリチャードが興味深い惹句を発している。

降雨について原始人は神秘的に考え、我々は科学的に考えると言うとすれば、これは馬鹿げている。いずれの場合も、似かよった心的過程が関与しており、その上、考えの内容の導き型も似かよっている。

 
実際、リーチはこのような事を書いている。

From this point of view technique and ritual, profane and sacred, do not denote types of action but aspects of almost any kind of action.
(この見地から技術と(不敬で、そして神聖な)儀式が行動の様式ではなくて、ほとんどどのような種類の行動でも同様の様相を示すのです。【訳:琴子】)

ここで、少し自分の立場を明確にしておこう。
最近の議論で言われている。「非科学信者への優越感」という部分。まさに文化人類学者のそれと同じだ。
文化人類学者は自分の文化を上と思ってはいけない。レビュ=ブリュルの言う「われわれとは異なった論理」を積極的に評価するべきで。私は、私の見方で彼らの理論を“評価”してはならないのだ。
ウィンチじゃないけど「科学的観念の海に浸りこんでいるので、もし彼がザンデ族の毒による託宣の話をする場合、(エヴァンス・プリチャードの言うような「ザンテ族が神秘的観念の海に浸りこんでいるので、彼は神秘的な話法で話さざるをえない」のと同様に)我々は科学的な話法で話さざるをえないのである。*1
私が私の周りの世界を認識するためには私に分かる言語まで落とし込まないと理解できないのだ。
それは、私が科学的観念の海に浸り込んでいるからだろう。