宗教学(原始宗教の成立について)

昨日のエントリについての補足になる部分も多く含んでおります。ので一旦、前回の論旨をまとめておこうかなと思います。

前回の論旨:水からの伝言=共感呪術説

フレイザーの『金枝篇』による呪術は類感呪術感染呪術に大別されると言う事でした。しかしながら現在に於いてはフィールドワークによる情報量も増えてきたため、類感呪術感染呪術だけでは説明しきれないタイプの呪術も出てきました。それぞれ「反復呪術」と「直接呪術」でしたね。
そして、フレイザーの唱えた二種類の呪術は「共感呪術」と言いました。
水からの伝言は大きく二つの理論形態となっています。第一は「「よい言葉」をかけると美しい雪花状の結晶ができる」という類感呪術。音や声による「波動」が見ずに影響を与えると言う感染呪術の理論が使われてる。
だから、水からの伝言フレイザーの唱えた「共感呪術」と形式的には同じ様相を持って居るんじゃないかという話しでした。

古代宗教の種類と派生について

E.B.タイラーとアニミズム

E.B.タイラーさんはイギリスの人類学者です。この人がアニミズムを唱えた人として有名です。アニミズムとは生物・無機物を問わないすべてのものの中に霊魂、もしくは霊が宿っているという考え方。
霊魂のことを「アニマ」と呼ぶわけですが*1、アニマを崇拝するのがアニミズム(魂=anima+抽象名詞〜ism)です。
万物に魂が宿ると言う概念や発想は私たち日本人にはなじみの深いものです。神道の中でも古神道に属するものはアニミズムから派生した宗教であるとも言えます。いわゆる八百万の神ですね。ただ、後述するプレアニミズムによる概念の方が妥当とも言えます。

プレアニミズム

プレアニミズムというのは、アニミズムのプレ(前段階)である宗教的な要素を指します。
魂や霊魂以前という段階です。R.R.マレットさんは「人格的な力」であるアニミズム(魂)よりも前に、「非人格的な力」である“マナ”という概念が先じゃないのか?と唱えました。
これが、プレアニミズムです。現在では「アニマティズム」や「ディナティズム」という場合もあります。
古代の人間にとっても自然というのは脅威でした。その、脅威の部分を「何らかの外力」が働いた結果であると古代人は考えたわけです。この力に対応する物が“マナ”ですね。
つまり“マナ”とは、万物に呪力を認める概念や発想のことを指します。
この概念を認めることで、逆方向の働きかけが出来るのではないかと古代人は考えました。
これが、まじないや呪術に当たります。
日本語で“マナ”に当たるものは「イツ」だと言われています。「厳」「逸」「斉」「溢」これら全ての言葉が「程度を越えている」という意味合いの言葉です。
復古神道を唱えた本居宣長は、「善悪、美醜、強弱を問わず、何らかの威力あるものを神として畏敬し、あらゆる事象を顕事、幽事という相即する世界観で解釈する」のが神道であると言っています。

トーテミズム

トーテミズムとはアニミズムに即応する概念で、19世紀の人類学者ガラティンが唱えた概念です。インディアンの苗字には動物や植物名が多く、自分の苗字の動物は殺さないし、同じ苗字の人間とも結婚しないという禁忌があったりします。
どちらかというと部族宗教の概念に近いものだと言えます。重要なのが動物を自分たちの一族と同一視する事だと言えます。
アニミズムインセストタブーを集合したような概念ですが、結婚やタブーによる部族経済の発展という事を踏まえると合理的なシステムであるとも言えます。

シャーマニズム

部族や集団の経済が発展すると、職業宗教家とも言える職能が発生します。これがシャーマンです。王権発生の一歩手前の段階でもあります。実際、優れたシャーマンは王にもなります。日本古代の卑弥呼などはシャーマン=王権という図式が発生しています。
シャーマニズムについてはミルチャ・エリアーデが詳しい。

フェティシズム

アニミズムのように自然物が人格を持った場合に、自然物そのものを崇拝するよりも認知性に高い擬人化した物体を崇拝した方が崇拝しやすい。
ままならぬ自然を手なづける行為として、非人格的な力から人格的な力に落とし込んだ訳ですから、非人格的な物を拝むよりも象徴しての物体を崇拝する方が合理的です。

宗教の発生過程(推論)

以上のような古代宗教の成立を見て解るとおり、「非人格的な力」を信仰するプレアニミズムが初期段階で発生し、アニミズムという概念が発生しました。ウィルヘルム・シュミットの唱えた原始一神教は「非人格的な力」そのものを「一つの人格」として見た場合の分岐で、アニミズムが「非人格的な力」をそれぞれの自然が持つと言う考え方だと考えると、兄弟分であると言えます。
また、アニミズムはトーテミズムを生んだり、フェティシズムを発生させています。トーテミズムは自己の血脈にトーテムと同じ力があり、自然と同等な力が自分にもあるという考え方であるとも言えます。これは、とりもなおさず人間が自然をねじふせることが出来るという考えにも繋がります。同じく、自然を理解するために人格化された存在を呪物として落とし込めることで制御しようというフェティシズムも根源は同じであると言えます。
それぞれ、原始一神教アニミズムもその集団が属する経済が発展していればシャーマニズムを発生させています。

宗教とはなにか?

プレ宗教と宗教そして科学を語る上で宗教とはいったい何なのか? と言う疑問が浮上してきます。これから論を展開する上で言葉の定義は必要になると思いますのでまずは、宗教について定義していきましょう。

フレイザーによる宗教の定義

フレイザーさんは「宗教とは、自然及び人間生活のコースを左右し支配すると信じられている人間以上の力に対する宥和・慰撫である。」と言っています。
ちょっと解りづらいですね、自然や人間生活を送っている時に感じる人間以上の何かがその進展を左右する力が存在すると言う考え。まずこれを許容する必要があります。そして、その人間以上の何かの力が荒れ狂っている場合はこれをなだめやわらげ、さらにその力の前にひれ伏して恩恵を被ろうと祈願する事を指しているのでしょう。
宗教がこのようなものだとすれば、その背景にある世界観は、人生のコースはもちろん自然のコースも、必然によって決定されるのではなくある程度の伸縮性や可変性を持っていると言う見方を前提しなければ成りません。人間以上の力が人間の願いを聞き入れて自然や人生のコースを変更してくれると言う因果律の逆転と言った世界観が必要となります。
ただ、この考え方はちょっと理知的すぎますね。合理的すぎると言う批判を受けています。

マレットとマリノフスキーによる宗教の定義

この批判の先鋒とも言うべき人はこのマレットさんです。この人の考えは合理主義を批判して情動主義を掲げている人と言えます。
先ほどのタイラーのアニミズムにも合理主義っぽいって言うんで、その前段階のプレアニミズムを提唱したこの人は、もう少し情動面に力を入れた考え方を提唱しました。
フレイザーの言うような観念連合によって頭で考え出す(リーズンアウト)のではなくて、激情の表現として踊り出す(ダンスアウト)のだと書いています。
これに同調しているのがマリノフスキーです。
特に重要な概念は「聖」と「俗」の概念です。日本ではハレとケですね。
フレイザーやタイラーは呪術を科学の異母姉妹であるという見方をしていますが、マレットやマリノフスキーは呪術は科学と異にする発生の原因を持っていて宗教の姉妹であると言う考え方です。
その批判の第一は、「いかに原始の人間であっても経験的合理的な知識や技術を持っている」という点です。例えば農耕民は、季節の変化に応じて適切な時季に耕地を耕し、そして播種する。季節の変化による植物の成長の関係や耕地の適否などと言った経験から来る合理的な知識を持っていて決して豊作祈願の呪術儀礼だけで収穫が上がるとは考えていないという点です。幾ら原始の人間であっても俗なる生活領域では経験論的合理主義によって培われていると言うことです。
第二には、「聖」となる領域の発生過程です。第一のように科学的・技術的に習熟した伝統を持っているが、現代に比べて未熟であるため、現代よりも遙かに大きい危険や困難に囲まれています。
この危険が最高潮に達するときに、彼らは俗から聖の領域へと一転するのです。つまり、彼らの持ち合わせている経験的な常識や技術では対処できない問題を解決する心の拠り所として、呪術や宗教が発生したのであるという考え方です。

宗教の分類

宗教の分類はすべからく二元論的な扱いになっていると言われています。
まず大きな分類として、有神的宗教か無神的宗教と言う分類があります。つまり神様を立てて祭るか、神を立てない宗教という考えでえす。古代仏教は「輪廻からの解脱」が主目的でしたから、神は立てていません。だから無神的宗教と言えます。ただ、時代が下って大乗仏教になると有神的宗教に変化してきます。
有神的宗教はさらに分類され、日本の古代神道などに代表される多神教。そして多神教から時代を経て、ギリシア神話のようにゼウス神、日本では天照大神最高神として成立している「単一宗教」、または、最高神が時代によって変遷していくような「交代神教」、イスラムキリスト教の様な「唯一神教」と言った細分が成されます。
次の分類方法として、権威主義的宗教と人間主義的宗教に分ける方法があります。簡単に説明すると「人間以外の大いなる存在」を認める宗教が権威的宗教と言います。人間主義的宗教は「人間に内在する真に尊ぶべき権威」を信仰する宗教です。例えば「理性・愛・自由・創造性」などを権威とする宗教です。
ただ、このような分類はキリスト教を意識した分類方法だと言われています。

新興宗教など

すべからく全ての宗教の初期は新興宗教でした。これは、否定できません。パウロの作ったキリスト教も初期はやはり新興宗教でした。ローマ帝国時代に迫害の歴史がそれを物語っています。
また、キリスト教が絶大な力を持つと、今度は自分たちが異端を厳しく取り締まるようになりました。いわゆる異端審問ですね。
まさに歴史は繰り返すのです。
では、キリスト教の教えにもインチキな部分があったか?
私はキリスト教徒ではないですが、教義自体は立派な物だと思います。キリストは「汝の敵を愛せ」と説いた。博愛と寛容の精神を強調したわけです。にもかかわらず、聖職者達は自分が権力の側に立つと、他ならぬ教祖の名において異端者を容赦なく殺していった。教義を守るという名目のためでした。
インチキな新興宗教とそうでない宗教を見分けるコツは、経験的に解っているのではないでしょうか?
第一に、自然界の法則に反する奇跡だの超能力などを吹聴すること。
これは、前述の宗教の発生過程とは真逆の方針です。自然界の法則に逆らうために宗教や呪術が発生したのではなく、経験的な常識や技術では対処できない問題を解決する心の拠り所として呪術や宗教が発生したのとは真逆であるってことです。
第二に、誰かの生まれ変わりであることを宣言すること。
エスの二代目とか釈迦の18代目とか孔子の10代目とか、さらには臆面もなくイエスと釈迦の掛け合わせなんてのまであったりします。
第三に、献金を強要すること。
第四に、教祖が普通の信者以上に派手な生活をすること。
およそこの4つを兼ね備えているのが、危ない新興宗教だと言えます。
パウロの作ったキリスト教は、イエスが奇跡を起こしたと言っていますが、新約聖書を書いたパウロなどの弟子達による誇張的な表現だったと思います。少なくとも、イエス自身はそれを布教の材料にはしなかった。奇跡を行ってみろと悪魔に唆されても断った。と、されています。一番重要なのが宗教としてパウロの作ったキリスト教が成立したときは教祖が既に不在であったって所でしょうか?
まとめると、新興宗教の全てが悪であるという概念はもう一度疑うべきである。と言うことです。

まとめ 〜呪術は宗教か?〜

さて、呪術の成立は前日の様なフレイザーの唱えた観念連合の法則から来るものであるという説と、マレットの唱えたような激情の表現として呪術が存在する説があることが理解できたかと思います。
現在ではフレイザーの唱えた呪術の成立はごく限られた範囲でしか適応できないため、マレットやマリノフスキーが唱えたような、経験的な常識や技術では対処できない問題を解決する心の拠り所とするための宗教儀礼の一種であるという見方が有力視されています。
呪術は科学ではなくて、より宗教に近い存在として発生すると言う考えです。
本稿では、呪術がより宗教に近いもので科学とはハッキリとした線引きがされていることをご理解いただけたでしょうか?

*1:ちなみにユングの心理学だと男性の深層心理にある女性像を指しています。