発言、自由と責任と有名匿名。看板は何を保証するのか?

先行したまとめ

「津村ルール」を適用する人がいる以上。信用を発言者の帰属する社会が担保しているのは自明である。信用保証において、信用を借り主が損ねた場合、保証機関が肩代わりするのは社会原理として致し方ない。
世の中にはいろんな考え方の人がいるから、その人の肩書きで相手を信用する人もいる。だから、信用を損ねた場合は「肩書き」の提供者が責められるのもリスクとして考慮するべきである。

本論

非常に興味深い対話なので、考察してみる。
結局、二人とも「言論の自由を認める上で責任は何かしら存在する」って意見は持っているんだよね。
ただ、その責任の範囲が「個人」に帰すものなのか、その人が所属する「帰属社会(団体)」にたいしてなのか?
ってところで意見が分かれているんだね。

そもそも実名で発言してて所属の看板背負ってないつもりの人がいると言うこと自体が信じられないのですが、散々「実名で発言することが利益になる」ことを強調して、それに対する懸念を一蹴しておいて、いざ実名舌禍事件が起きると匿名のイナゴによる言論抑圧(行政的な制限を科せるわけでも肉体的拘束が出きるわけでもないのでそもそも弾圧という言葉は不適当だと思います)としてしまう向きは自身の言動に対する影響力の無さを喜ぶべきです。みんなが信じなくてよかったね。

NOV1975氏は、「個人の発言が信用されるというとき、その人の帰属する社会が担保になる」って事が第一条にあるんだろうと考察。

  • 発言の信用度や社会的影響度は発言者個人を取り巻く環境に影響する。
  • 実名発言はその信用度を「名前と所属」がそれを保証する。
  • この保証は「連帯保証」と同じ形式を取る。
  • 故に、発言者当人の信用問題はそのまま当の保証人である帰属社会にも影響を与える。

って理論だと思う。

「看板背負ってる」から看板攻撃されても止むなしってのはちょっと筋が違うんじゃないか。「所属を明かして発言するのはリスクが有りますよ」って事を言うなら子供は0.5人計算でお馴染みの准教授に対して同情的に成らないとさ。「ああー実名開かしてたばっかりにローカル世界でも断罪されて可愛そうですね」とか。看板背負ってたって発言によっては「え?看板関係なくね?」って思うことは多々あるんじゃないの?特に馬鹿なら尚の事。

一方pbh氏の考え方は最初の部分は同意しつつ

  • 発言の信用度や社会的影響度は発言者個人を取り巻く環境に影響する。
  • 実名発言はその信用度を「名前と所属」がそれを保証する。
  • この保証は「根保証」に近い保証である
  • 故に、発言者の身分や所属は保証するが、発言者本人の信用を保証するものではない

という考え方になるんでしょうか。
二人の考え方は、どちらも正しいことを言っているような気がします。しかし、第三者の信用をした人はどこに信用したのか? というのを考えるとなかなか難しいところがありますね。
つまり、

  • 人を信じたのか
  • 所属の正当性を信じたのか

これが意見の相違の原点なのではないでしょうか?

発言の信用は、金貸しの信用と同じ仕組みがあるんではないか?

って琴子は考えています。
いわゆる金貸しがお金を貸すときに、大手の○○信用保証組合が保証するなら金を貸そう。とか、この人とのお金の貸し借りの履歴からこの人は信用できるからお金を貸そうとかそういう切り分けでお金を貸しているわけですね。
 
表現の自由は大前提として当然にあるわけですが、その表現を認めるか認めないかは、第三者表現の自由になります。
本来であれば、お互いの表現の自由を阻害しないのが理想的なのですが、その表現した内容の信用性とか正当性そのものを「実名」や「所属」が担保としている以上、ある程度の制約を免れることはできないのではないかと考えます。
 
匿名による発言でも、NOV1975氏やpbh氏の発言をある程度正当的な発言として、私が見ているのはつまり、この両氏の発言を以前から見ているため「信用」をしている。というのがあります。つまり、金貸しで言うなら「過去の取引がその人の信用を保証している」という見方です。つまり、匿名でも信用を得る方法はあると言うことですね。「黒木ルール」的な考え方ともいえます。
一方、それに対して「ちゃんとした保証機関の保証がないとお金を貸さないよ」って言っている人もいます。つまり「津村ルール」ってやつですね。
津村ルールを採用すると信用の決済が楽になるんですよ。その信用を損ねた場合、信用できますよって吹聴した機関がそれを肩代わりするんですから、これは、お二人も同意できることかと思います。
ただ、これでお金が返ってこなかった場合、「保証機関が金を返す」って意味合いでの信用です。
んで、実際には「津村ルール」的な信用をする人もいるって事ですね。
だから、俺の信用返せってことで。あいつ所属を書いているから所属にその責任を肩代わりさせようぜ!っていう発想も私には否定することができません。
 
リスク管理として、「津村ルール」の根幹は所属の正当性がその人個人の正当性を保証しますから、津村ルールに合致する場合は、暗黙の了解として正当性を保証する機関も責任を負うことになります。
つまりこれが、NOV1975氏が言いたかった「看板をしょっている」の正体だといえます。
 
一方、pbh氏の「看板しょってても看板責めるのは筋違いじゃない?」ってのも必要ですね。
私もこの意見に非常に賛成です。実際問題問題起こした人が責められるべきって言う原則論、いや原理主義。に共感を覚えます。
しかし、そうでない考えの人も多数いるって言う現実では、リスク管理の問題として非常に危険であるといえるのではないかとお思います。
常に、私たちとは違う考えの人もいるんだということを考えると、リスク回避には実名をする場合はその所属にも影響を及ぼす可能性があるというのを念頭に置いて行動する必要に迫られます。
 
故に、先行したまとめの通り
「津村ルール」を適用する人がいる以上。信用を発言者の帰属する社会が担保しているのは自明である。信用保証において、信用を借り主が損ねた場合、保証機関が肩代わりするのは社会原理として致し方ない。
という結論は原則論よりも実効論として有効なのではないでしょうか?

些末ごとのツッコミ

「誹謗中傷するのも自由」ってのは大きな間違いだと思います。
ミルの「自由論」を読むと分かると思うけど、すべの個人の自由は「他者の自由を束縛しない限り」において有効であって、他者の自由を阻害しない限りの自由です。
誹謗中傷は相手の行動や自由を阻害することになるから、誹謗中傷が自由ってのは間違い。
だから、誹謗中傷は刑法における罪に該当して、その免除事由が「社会的に有益(公共の福祉に叶う)」以外は原則禁止となっているのです。
ただ、行動しない「頭だけで考える」という事については何ら犯罪になりません。つまり、頭の中でいくら相手を誹謗中傷罵詈雑言をしようが捕まることがないのです。これが、自由の本質であり特徴といえます。
 
たとえるなら、行動の自由があるから殺人の自由があるのか?
と同じ原理です。んで、「殺人の自由」が無いから「行動の自由がない」って考えるのは変な導出方法です。