私の命とアナタの命は果たして等価か問題
当たり前ですが、私の命はアナタの命より尊い(断言)
この法則が成り立たないと、算術的な比較が出来ない事になるんでしょうね。
人の命は算術的な比較が可能であるというゴマカシ。そのような足し算割り算は、いつも権力者が独占するそろばんで行われます。
公平主義な人は、私の命とアナタの命は等価だって前提での話しになるんだろうな。
私の主観で言わせて貰えば、「命が等価」だなんてこと自体が幻想で欺瞞とごまかしに満ちているように見えるんです。
基本的に私は独善主義なので「自己の命が他人の命よりも価値が上」だと思っています。
つまり、コレが「算術的比較が可能な状態」と言えます。
さて、この法則を敷衍しましょう。
「自分の命の方が他人の命の方が上だ」が真である場合。
「(自分の※複数的な意味で)命の数が多い方が、より善である」と言うのも成り立ちます。
トリアージというのは、算術評価を基礎に置き、「より多くの命が助かる事を最上」としている訳です。
そこに矛盾は発生しない気がします。
誰もが生き延びたくて、それでも、助けられる人数が明らかに少ない場合どのような評価をしても「生き延びられない人が発生する」というのは、完全な数学問題とも言えましょう。
だったら、最適化を行い「数を優先する」というのは「この子は幼いから可愛そう」とか「この人は、社会的に評価された人物だから」といった無駄な差別をせずに、単純に生き延びる可能性の高い人から助けるというのは非常に公平だと考えます。
経営学的な評価も同じ事を意味します。
「私の組織は、他の同業他社よりも重要だ」というのが「経営学の基礎」ではないでしょうか?