お昼休憩で考えたメモ

しばらくの関心事:行動様式による再帰的社会観

「神」「聖なる物」「超越した人物」についての信仰や信念を、信仰者本人の態度や行動によって社会システムとして組み込まれる事。
っていうのを宗教って定義してますが、実際社会にアウトプットされるのは「本人の態度と行動が社会に影響を与える」って部分です。
その行動規範が、宗教であっても科学であってもなにがしか社会に対して影響を与える。(行動様式って奴ですね)から、宗教と科学が一緒に見られるんだとと思う。
再帰的に人の行動様式から社会を眺めた場合。宗教と科学は分別できないんじゃないでしょうか?

カルバン派

プロテスタンティズム」ってカルバンのことだよね?カルバン派なんてマイノリティじゃなかったの?

今じゃマイノリティーだねぇ。ま、執筆当時はそれなりに勢力あったのか、それともヴェーバーがその学派だっただけだったのか解りませんがね。
でも、ルターの唱えたBerufとカルバンの救済予定説ってのは、キリスト教史のなかでも結構重要な転換点だったじゃないのかな?
特に救済予定説ってのは日本の悪人正機とは違って「原罪」思考がありますから、スゴイひねくれた思想だと琴子は思うのですが……。
だってさ「救済は神が決めることで、その名簿は神の御心による」って前提があったら「例え善行したとしても入らないかもしれない」って事になり、「じゃあ、自分はリストには入らんだろうな……」って事になって、さらには「じゃあ、なにやってもいいや!」ってならないのかなぁ? この論理は、ゲーム理論を出すまでもなく人間側は好き勝ってやるのが勝利に近いよ? っていつも思う。
多分この辺が、日本的宗教観から見たキリスト教理解の限界点なのかもね。
あ、いや一応そのカルバンの論理性は解った上で突っ込んでるんですがね。
しかも、この思想って第19回目の公会議カトリック側は否定したんだよね。

ドイツの勤勉性って

どっかのジョークにフランス人のコック、英国人の警官、ドイツ人の医者、イタリア人の恋人が理想型。最悪型は、イギリス人がコックでイタリア人が警官、フランス人が医者で、恋人はドイツ人というもの。
お国柄を揶揄した話しではあるのですが、ドイツ人の生真面目さ具合はルターの責任か?

目に見えた物しか信じないっていう不条理

大体、「私は目に見える物しか信じない!」なんて言う人に限って、携帯でメール送ってる。
多分あの子達は電波が見えるニュータイプ