突っ込み講座

釣り人と自称されているようなので手加減無しで突っ込みしてみるね。

みんなって誰、失礼、一部の自分の記事をはてブした人達。なら宗教ってなに? 

はてブはしなかったけどお答えしますね。
宗教ってのは、神とか聖なる物とか超越した人物についての信仰や信念を、信仰者本人の態度や行動によって社会システムに組み込まれる事を宗教って言います。科学の違いは、その神とか聖なる物とかの存在を「必ずあるもの」として認識するところが違います。
科学の世界では、「必ずある」という事を否定する考え方です。例えば、「暗黒物質」なんかも取りあえずあれば現在の現象を説明可能だから「存在するはず」と定義することが大きな違い。

宗教と科学が別な物とハッキリ区別できるなら19世紀に神は死んだなんて誰も叫ばなかったろう。

ニーチェは別に宗教と科学を未分別で叫ばせたんじゃないんですよ?
「理性による神の殺害」と言ういい方もされますが、このセリフに登場する「神」というのは、カントの言う「理性的存在者一般」に近い存在で人も神もその同類項に入ります。19世紀の世界的現象を見ても、ダーウィンの進化論が登場し、人間の祖先はサルだ! ってことで人間が神に愛された特別な存在という考え方にNOを叩き付けられたし、(ニーチェよりは時代は下りますが)フロイトによって無意識という「理性では制御できない自分」が発見されたり。つまり、それまで信じられてきていた精神的なバックボーンであるキリスト教の世界観がガタガタになった時代に、「その世界観(この場合、理性を中心とした世界観やキリスト教の世界観の事)は壊れたんだ!」と叫んだのがニーチェの「神は死んだ」発言なのです。
ニーチェはこのセリフを書いた『悦ばしき智慧』(1882年)の翌年から執筆される『ツァラトストラ』以降の思想と切り離すことは出来ません。信じるべき拠り所を失った事により、ニヒリズムが発生してそれを否定せず。また、キリスト教の否定により最後の審判も亡くなり、時間というのは「永劫回帰」であり、個々人がそれぞれの役目を果たさねば時間という物の中で希釈される。その恐怖に耐え、「超人」となれ!と続くのがこの発言の本当の味方なのではないでしょうか?

そういう考えは共通一次以降の問題が初めに在りきで答えは○か×を答えればいいという考えが習慣化しているからだ。

えーっと、言いたい意味が掴めませんでした。世の中を二分岐で表現する手法に異を唱えていると認識すればいいのでしょうか?
宗教だと、神の存在は常にYesで、世界は神が作ったってのもYesです。つまり分岐もしない世界ですね。宗教だと常に一つしか答えしかない世界で、そのような考え方が習慣化してるからだ! もっと世界は複雑で分岐すらない世界観では真理を表現できないぞ!と突っ込めばいいのかな?

宗教とはこの世界はどうして始まってどうなっていてどう生きればいいのかに応えてくれるものなのだ。

そう言う思想を「原理主義」と呼ぶんですが、逐語霊感説を唱える福音派なんかは最右翼。聖書をそのままに「文言を鵜呑みにする」ように読むべきと言う教義は、私から見ると生きにくいだろうなぁなどと、感想を持つわけですが……。
あ、大丈夫! 別に否定はしないから「生き方自体」は。ただ、それを自分だけの心にとめておいて、科学とかを否定しなければ攻撃しません。あ、いわゆる専守防衛ってやつ? そりゃー、「聖書に書かれているからE=mc2は間違ってる!」とか言われたら反駁せずには居られませんからねぇ……。

この宇宙がどうやって始まったのか。神が開始したのか、ビッグバンで全てが始まったのか。さぁどちらを取るのだ、とした時殆どの人はやっぱりビッグバンを取るのでなかろうか。
その採用理由は自分で考えたわけではなかろう。科学界が概ねその意見を採用しているからという理由にすぎない。

科学が信用される理由は、検算できるって事です。つまり、誰がやっても同じ結果が出ますよ〜って言うことですので、科学界がおおむねその意見を採用している場合は、つまり検算結果に齟齬が出なかったって事です。故に信用に足ると言う論理構成です。採用理由としては当を得ている気がしますが? なにか問題あるのでしょうか?

そこでも様々な考えは分かれてビックバンはなぜ始まったの。そこに神の介在があるのではと考える人もいるかもしれない。だとしたら科学が解けない部分で神を介在させて科学の上位に宗教を置く物なのだろう。

別に、この理論はアインシュタインも否定してません。ビックバンより前の世界とかビックバンの発生原因については、説明できる確固たる理由がなければ「神が作った」って言っても良いし。「天矛鉾」で世界をかき混ぜ始めたって言っても良いんじゃないんですか?
ただ、ヴィトゲンシュタインのように「語り得ぬ事には沈黙しなくてはならない」というのが理性的な態度だと思いますがね。
科学者は理性を愛しますから語り得ないことについては沈黙をするのです。

 兎に角、科学が一般に普及するまでは神がこの世界を創ったという事に殆どの人は合意していたのだしそれが依って立つ人々の足場であったはずである。ところが宇宙の始まりに神は介在せず物理現象のみで説明が付くならばこの宇宙の原理は科学だけで説明つく事になり神は用済みとなる。それが神は死んだという認識ではなかったのか。

まあ、ニーチェの「神は死んだ」の通り、キリスト教の世界観は否定されていますからねぇ。第一、キリスト教じゃなくて仏教の世界では世界に始まりも終わりもないって世界観ですよ? この世界観を『法(ダルマ)』と言います。仏教徒なら「世界の始まり? なにアホなこと言ってんだ! 世界は昔っからあるし、未來に於いてもあるだろうよ!」って一蹴されます。つまり、世界の始まりは神が作ったという概念のない宗教もある以上、それが寄って立つ人々の立場って言うのは疑問が出ます。

それ以降の人間は神を大事にしても常に本当は神は宇宙を創っていなかったんだよな、でも長年の習慣から一応神に敬意を示しておくことが大人の振る舞いとして求められてきたのだ。そういう不信人な人ばかりで過去の遺産のように生きながらえている宗教に対して科学と宗教は別だと言うのはまったく宗教を馬鹿にした扱いである。宗教も大事だよ形だけだけど中身はないけど大事にしてますよというスタンスだけが重要というわけだ。はっきりさせようじゃないか。あなたは神を取るのか科学を取るのか。

この辺に勘違いがあると思うのですが、「科学は生き方を示しません」しかし、宗教は超越した存在を基盤として人「個人の生き方を定義」します。神は居ても居なくてもこの生き方の論理は合理的で正しいのではないか? って言うのが現在の(ヨーロッパやアメリカ北部の)キリスト教における主流な考え方です。言葉に魂なんて無いから、薄汚い言葉で他人を罵っても構わないって言うくらいの暴論。科学と道徳は違うでしょ? 宗教自体は生き方の学問ですから、そのような意味で二元論を唱えるのは科学と宗教に対して逆に失礼でしょう。

人間の奥底には依って立つ足場が必要なのだから科学も宗教も役割分担なんて生易しい事ではないはずだ。というより現代人は科学が普及する前の人間の世界観なんかとっくに忘れてしまったと言ってもいい。

それが、文化的進化っていうもんでして、いまさら魔女狩りとかされてもねぇ……。
所で、「正反合」ってのがあります。英語だと「thesis(テーゼ)・antithesis(アンチテーゼ)・synthesis(ジンテーゼ)」っていいます。社会もこの正反合によってどんどんと良くなっていくっていう論理がありまして。懐古主義は保守にあらずと言うように、時間軸が一直線にしか流れない以上そこに留まるって思想は甚だしく歪であると認識しますが……。
また、宗教の発生以前の世界がそれ以前にあったことを忘れていませんか? 彼らは、寄って立つ足場は何処にあったのでしょうか?
宗教がそれを肩代わりしたんじゃないんですか?

そういう器用な生き方なんてまずできない。人間が本当に信じてる物は一つしかない。あれもこれも信じるなんて芸当は殆どの人は無理。その場所を巡っての争奪戦が19世紀に勝負がついて科学が勝利したから神は死んだと叫んだのだ。だから現代科学は宗教に取って代わった正嫡子なのである。誰も彼もがそこを基準に思考を始める。それはまぁ現代では仕方がない事なんだ。誰もこの事から逃れられない。

科学と宗教を佃煮にして考えちゃうとこういう結果になるよね。
そもそも、科学と宗教の目的が違うのに一緒にするから、なんか同じ目的っぽいぞー!って事になっちゃうんじゃないの?
科学が人に心の安寧をもたらしますか?
残念ながらあなたの希望する科学は、心の安寧をもたらすことはありません。誰でも追証可能な事実しか提示してくれませんから。これを滑稽なことと思うのでしょうか? 曰く、無駄じゃないかと――
あと、科学の本当のお父さんは「哲学」ですよ?
ついでに言うと、出来の悪いお母さんは「錬金術」ですね。