ミルの反論

「規制しなければ、悪しき批判は良い批判を駆逐するであろう。」つまり、頑迷かつ邪悪な攻撃は、筋の通った議論を不可能にする。だから、批判的討論をめちゃめちゃにしないように、規制が必要だというのである。

ジョン・スチュアート・ミルってオッサンがいます。
彼が書いた自由論にはこんな反論がありますね。

社会がその個人を統御する力があるのに、社会がなんらかの方法で個人を統御するよりも、個人の自由裁量に任すときの方が、大体において、個人がより良い行動を取る可能性がある。統御を実行仕様とする企てが、この企てが防止しようとする害悪よりも一層大きな他の害悪をもたらすように思われる。
ミル『自由論』

ミルさんの自由論は

  1. 判断力のある大人は
  2. 自分の生命、身体、財産を、
  3. 他人に危害を及ばさない限り
  4. その決定が、当人にとって不利益なことでも
  5. 自己決定の権限を持つ

と言う理論です。
この理論のキーポイントが4番目の「当人にとって不利益な決定でも」という「愚行権」と言うべき権利があるぞって事ですね。
客観的に見て馬鹿げた行為であっても本人にとってそれが正しいと思うのならば、例え宗教上の理由で輸血を拒否しようが、たばこを吸おうが、危険なスポーツを行う。女装して秋葉原で練り歩く。と言った、合理的ではない、自己の利益にならない事をする権利があると言ってるわけです。
 
ただ、この権利を認めてしまうと、一方では正しい認識が正しい判断を産むという主知主義な前提で自己決定を正当化出来るけど、他方ではこの愚行権を含む個性と自発性の尊重という非合理主義の論点で自己決定に使われるというやや相反する自由を混合してるわけです。
ミルさんは自由の尊重にはもう一つの理由があって、言論の自由を擁護する文脈としてもキーワードとなっています。「批判的吟味・自由競争によって初めて真理に到達する」と言う論です。
多数の人間の反復される判断が自然淘汰されて真理に到達すると言う経験主義的合理主義の立場です。
 
先ほど引用した社会の干渉について、ミルが実際に危惧していたのは、政府による政治的な干渉だけではなく、大衆の宗教的な狂信に基づく個人主義への不寛容でした。

ここに指摘した害悪は、ただの理論の上だけで存在している害悪ではない。それで、恐らく、現代の我が国の公衆が自己の好みに不当にも道徳的法則の性格を帯びさせている実例を、細かく上げることが期待されるかもしれない。(中略)また、道徳警察とでも呼ぶべきものの権限を拡張していって、ついには個人の疑う余地のない合法的自由までも侵害するほどになると言うことが、人間のあらゆる性癖の中でもっとも普遍的なものの一つであることを、豊富な実例によって明らかにする事は難しいことではない。
ミル『自由論』

あ、でもミルさんはイナゴについてはまったく擁護してませんから、この辺は注意ね。

言論を自由にすれば間違った意見は淘汰されて、真理が明らかになると言うのが「言論の自由」の擁護論です。
自由は真理を発見するための手段です。
しかし、「いなご」も言論は規制すべきでないと言う主張は、「自由」自体が目的になっています。
 
それでも、我々はイナゴを果たして正確に峻別できるのか*1と言うと疑問を提示せざるを得ません。
故に、私は「必要悪」として受け容れるべきである。と考えます。
理由は、規制した方が害悪が多いからです。
功利主義な感覚ですね。最大多数の最大幸福って奴です。

*1:また、誰が分類するのかと言う問題もあります。もちろん、当事者では無いことは確かです。