マイケルソン・モーリの実験と言うソースコードを見なくてもそのコードを信用する基準はある

信用するための閾値

似非科学と言うよりは、モジュールとかの利用についてとかの話しで行きたいかな……。

そしてその包括的かつ正確な予測手段を担保しているのは、実験です。

しかし、数多の科学的な見地のうち、実際に自分で検証できるものは限られています。科学者でさえ、一歩自分の専門領域を離れてしまえば、他の科学者の論文を「信じる」しかありません。例えば、光速不変を信じるために、自らマイケルソン・モーリの実験をしてみた人はどれくらいいるのでしょうか?

弾さんは「○○さんが書いたソースだから全面的に信じて利用する」なんて言うプログラムの使い方はしないですよね。もちろん私だってしません。てか、自分が書いたソースすら信用出来ないってのが不文律みたいなもんですから……。
科学を信じるっていうのは、科学者を信用する事と理論を信じるって事をごっちゃにしてるような気がします。
私がモジュールを使う場合、自分の信用できる筋がどれだけ利用しているかってのが大きな指針になります。○○さんも、□□さんも使ってるから安心。バグが発見されても修正されるのが早いしそれまでの回避手段の情報も得やすい!ってのが理由。
これを科学に置き換える場合、科学者はプログラマ。科学理論はモジュールです。
モジュールの信用度はプログラマに依存するのではなくて、その一般性と応用性、そして利用者が増えることによるバグの早期発見とその修復じゃないでしょうか?
いわゆるオープンソースな考え方です。オープンソースなプログラムはみんなが使っているから安心って部分もあります。もちろんそのみんなの中には、まるっきりの初心者から技術錬度の高い技術者まで居るわけです。
科学理論は当たり前ですが、オープンソースな考え方に基づいています。誰もがその理論を修正することが出来るように論文という名のソースまで公開されているもの。もちろん、利用者が多いことも必要な条件でしょう。科学の場合だと、科学を利用する人は科学についてあまり知識のないひとから実際に菊池さんのような高いレベルの技術者まで居るわけです。この辺も非常に似ているところだと思います。
この方法だと、マイケルソン・モーリの実験と言うソースコードを見なくてもそのコードを信用する基準はあるって事です。
ただ、これが似非科学になるとだ、あるオープンソース系プログラムでバグのあるモジュールが公開されていて非常に便利だから、一般のプログラムについて錬度の低い人が大量に使い始めていて、特にこのプログラムがネットワークのトラフィック過多になってしまうような重大なバグであるのにもかかわらず。制作者自身がバグの公表をしないで未だに配布中。そして、知識のある技術者がこれはまずいってんでそのモジュールは使用しないように!って叫んでる状況だと言うことだね。
んで、さらに悪いことにこのモジュールは見た目を変更するだけで代替機能は既にシステム側にあるって話し。

こういう状況になったときに高度な技術を持ってる弾さんがどのような行動を自分が取るかってのが今回の菊池とかの状況。