倫理と言う幻想

いぜん、ゲーム理論と道徳の発生について述べたことに繋がる内容かとは思いました。
参考:倫理・宗教・法律以外での道徳の思考実験 - 泣き言メイン(琴子のセンス・オブ・ワンダーな日々)
ちなみに、「ゲーム理論」でこの問題について答えると「TFT戦略」が成立しないから動物の食肉はOKって言う結果になりますね。もしくは野生の動物は人間に危害が加わる可能性があるから積極的に「TFT戦略(によって、殺られる前に殺ると言う行動)」を行使しないといけないからといういい方も可能です。
今回は、「最大多数の最大幸福の追求」について

なぜ人はダメで牛はokなのか?
(中略)
A男さんを裁くことこそ裁く側の身勝手な都合ではないでしょうか?
正義ってなんでしょうか。「多数派の都合」が正義でしょうか?
それを全くの自己批判も無しに振りかざしていいもんなんでしょうか?
A男さんを裁く側は「君には悪いけど我々にとってあなたは脅威だから、我々の都合で死んでもらいますよ」と言うべきじゃないでしょうか?
裁判官はA男さんを「自己中心的だ」と断じました、なるほど彼はは自己中心的ででした、でも裁く側は自己中心的ではないでしょうか?
そう問われた時、我々は有効な反論を持ちうるんでしょうか?

まず、忘れがちなのは「牛を殺すのも人を殺すのも共にタブーな地域があるという事実」です。
インドのヒンドゥー教の地域などは牛は神の乗り物で使いであるから殺しちゃいかんです。
敬虔なヒンドゥー教徒は牛を食べないと飢死するんだったら飢死を選びます。教義的にもその方が輪廻のなかで回っていきますから。牛なんか食べた日にゃ輪廻したときに虫になるかなんになるか解りませんから……。それを愚かと言うのは早計です。たまたまアナタがそう言う文化的コードを持っていなかっただけの話し。
ジャイナ教の教義には「アヒンサー」というのがあります。アヒンサーというのは、あらゆるものに生命があるという考え、動物・植物はもちろんのこと、地・水・火・風・大気にまで霊魂の存在を認めると言う考え方でそれらの生命を傷つけないと言う教義がアヒンサーと言います。
空気中の小さな虫すら殺さないように白い布で口を覆うとか、歩くときにはホウキを持って踏みつけないようにするとか。徹底されてる場合もあります。
そう言った、宗教的ドグマの世界においては、人はおろか動物や虫すら御法度です。
つまり、そう言った倫理や道徳言った物は「構成社会や文化によってひどく異なる」と言う事実。
逆に言うとですよ、人が構成する社会や文化によって幸福の概念が異なるって事は重要な示唆だといえます。
だから、まず人間と動物(ここでは人間を含まないということにして)の違いは 理性..人間が殺されることと牛がそうなることが無条件に等価になる理由がわから..の主張は論点が可笑しくなるんじゃない?

そう問われた時、我々は有効な反論を持ちうるんでしょうか?

以下に述べます――

「多数派の都合」が正義でしょうか?

ある意味合いにおいては真です。というか、現行の法律とか法体系は「最大多数の最大幸福」を基本としています。いわゆる「公共の福祉に反しない限り」という理論。
絶対的な正義という概念は私は持っていないので、その共同体が持っている相対的な正義という意味合いに於いては真に近い存在。

A男さんを裁くことこそ裁く側の身勝手な都合ではないでしょうか?

正義が多数派の理論である以上。身勝手というのは偽です。身勝手の定義によりますが、自己の延長に他人もいることを前提にしている以上身勝手とは言い難いと思います。
よって、裁判官はA男さんを「自己中心的だ」と断じました、なるほど彼はは自己中心的ででした、でも裁く側は自己中心的ではないでしょうか?についても偽と言えます。

A男さんを裁く側は「君には悪いけど我々にとってあなたは脅威だから、我々の都合で死んでもらいますよ」と言うべきじゃないでしょうか?

世の中、本音と建て前は使い分けると思いますが、いわゆる本音はそれでしょう。
もう少し厳密ないい方をすると、「君は我々が構成し維持している社会の秩序の存続に於いて脅威となるから、死んでもらう」と言ういい方が正しいです。裁判官の言う「身勝手な行動」というのはこの場合、「社会秩序の維持に悪影響を及ぼす行動」を身勝手な行動と言い換えてるだけです。
Bさんの牛肉を食べるという身勝手は、Bさんの所属するその構成社会に於いて「社会秩序の維持に影響を与えない行動」なので不問に付されているだけと言う事も覚えておきましょう。
また、現行の死刑制度に対する考えは様々ですので、ただ単に「死んでもらう」というと語弊が出ると思いますが、「他に同じ考えを犯す人が出ないように見せしめのために死んでもらおう」という考え方(目的刑論の一般予防論ないい方)でも、上記のような「同じ事を繰り返させないために」という考え方(目的刑論における特別予防論ないい方)でも良いと思います。

さて、話しを戻して……。

最大多数の最大幸福についてですが、何を幸福と呼ぶかはその社会構成や成立文化によって大きく異なる訳ですが……。
例えば、牛を殺したら禍があるから、犯人を供儀に捧げることで禍を回避する文化が成立していたらもちろん、殺人よりも重い刑罰になるのではないでしょうか?
たまたま、日本というイモの尻尾のような島国に於いてそのような文化的なコードを持っていなかっただけで、そのような問題は幾らでもあるわけです。
例えば、日本ではわいせつ物を販売することは犯罪となるコードを持ってるわけですが、他の国だとOKとかあるわけですよ。
同じく下半身の話しであれば、売春は日本だと犯罪ですが、某国当たりだと国営の売春宿があったり……。文化コードが違えば幸福も罪も異なるというのはいたって普通なことです。
他にも、麻薬なんかも合法な国もあるわけで。オランダなんかは売春宿も麻薬もOKだったかな。
また、文化的コードも地域だけではなく時代や年代に応じて変化するものです。つまり、法律の形骸化も存在するわけですよ(なぜなら、文化の変動の方が先に起きて法律が改正されるから)。例えば、「決闘罪ニ関スル件」とかね。江戸時代は果たし合いとかも文化として成立していたり、いわゆる「仇討ち」って奴ですね。その後明治時代になって禁止されるまでは文化コードとして成立していたわけですよ。曽我物語なんてのはそれを題材にした物ですし。
落語に「一つ目国」って話しがありますね。一つ目の人間だけが住む一つ目国の話を聞いた男が、「捕まえてきて見世物にすれば一儲けだ」と考えてその国を探しに出かけついに一つ目ばかりが住む国を見つけた男ですが、逆につかまってしまい、「珍しい二つ目の人間」として見せ物になったって筋です。自分が住んでる世界が中心って訳じゃないよって言う教訓話みたいなものでしょうか?(滑稽話というジャンルですが、その世界観のシュールさや話しの筋を考えると恐い話しだと思います)
しかしながら、その文化圏内に組み込まれて生活をしている人間はその文化的コードに制約された行動を取らねばなりません。だから、犯罪は犯罪として成立するのですね。例えAさんが人を殺さないと生きていけないと言う存在であるならばそれを抑制して生活することを社会は規定するわけです。それが、公共の福祉って考え方。だから、オランダではOkなのに日本じゃ駄目なんて可笑しいから日本でもやるぞ! ってな訳にはいかんわけですよ。
 
少しまとめましょう。

  • 全ての人の幸福は望めないので、最大多数が幸福になれるように倫理規定を行うというのは機能面としては正しい。
  • 幸福の定義は、その社会の構成や成立文化のコードによって異なる。
  • よって、持っている文化によって倫理規定は異なる。

⇒(ならば)Aさんが犯罪で、Bさんが犯罪じゃない世界もあれば、同じく世界によっては二人とも犯罪だったり、どちらも犯罪として成立しない世界も規定可能である。

こういうのを相対的世界観というのかね?
ジャイナ教の唱えている「スヤード・ヴァーダ理論」だね。
つまり、真理は多様に言い表せると言う相対主義だ。