言霊論:詳解

まず、言霊について詳しく述べているのが賀茂真淵(カモノマブチ)の「国意考」が上げられます。内容は省きますが、当時流行っていた「朱子学」よりも本来の神道の考えのほうが日本人に合っているのではないか? と言うような内容です。
ま、内容はともかく言霊については外来の「文字」に対する古の「ことば」の優位を説いたことが上げられます。
この理論を「音義説」と呼ぶのですが、弟子の本居宣長に引き継がれその後、富士谷御杖(フジタニミツエ)や堀秀成などに受け継がれています。

音義説とソシュール

少し、音義説について説明しましょう。
音義説ってのは、「似た音は似た意味を持つ」って理論。
ちなみに、この理論ソシュールからは完全否定です(笑
日本でも国語学では否定的な見方がされてます。
もう少し、詳解しましょう言葉というものは「おと」と「いみ」に別れますね。
つまり、幾つかの「音」と「意味」の繋がりが「言葉」になるわけですよ。
例えば「犬」という意味は/inu/と言う音とセットで初めて理解されるんですね(非常に当たり前ですが……)。ここで言う「犬」は意味内容として「シニフェ」って言います。また、音のイメージ/inu/は「シニファン」と言います。このシニフェとシニファンがセットで初めて記号「シーニュ」になるんです。
 
シーニュ(記号)=「シニフェ」+「シニファン」
 
ここで、注意すべき事はどっかに「シニファン」と「シニフェ」があって「シーニュ」が出来るって勘違いしやすいって事。
これ、逆なんです。シーニュとして区別しなければならない事項があって初めてシニファンとシニフェが生まれるってことです。
例えば、虹の七色ですが海外では5色です。
逆に、中国語では馬をいくつもの分類で呼んでいますが、日本語では馬ですんじゃいます。
他にも、イヌイットの言語では「氷」という言葉にもその状態によっていくつもの呼び方が合ったりするんです。
つまり、生活圏に応じて「記号」を分ける必要があって*1、初めてその記号を示すシニファンとシニフェが生まれるんですね。こういうのを、ソシュールは「言葉の恣意性」と呼びました。(「一般言語学講義」とかに詳しい。)

ま、「犬」と「椅子」が音素がにてるからって似たものを示すかってのを考えればソシュールの考え方は正しい(あ、ダメですよ? 同じ四本足だ!とかは)。

ところが言霊論になると

ソシュールに否定された音義論ですが、神道の考えでは、まったく逆のベクトルで信じられているわけですね。意味がまったく違っていても、同じ音素を持っていれば同じ力を持っていると言う考えになるわけですね。
それこそ、「シニファンが音素の組み合わせなんだから世界を示すそれぞれの記号を示すには似通った音素を使うのは当たり前じゃないか! だから、実際には違う記号を示す物も同じようなシニファンであるのならば何かしら有機的に繋がりがあってお互い影響を与え合うんじゃないか?」って考えとも言えます。鍼灸のツボとか経路に似た思想とも思えます。
むしろ、言語学が言葉の成り立ちについて考える学問であるのに対して、神道は既に成り立っている言語に対して考える信仰だからでしょうか?
旧来の言語学とにていると言う向きもありましょうが、音素に意味があるという考え方ではないと言うところが特徴ですね。ですが、日本語の音節は112とか言われてます。たった、112個で全ての意味を網羅する組み合わせを作るなんて無理ですね。
有名なトンデモ理論だと、日本語に於いて「つ」と言う発音は「丸い」という意味合いがあって、「き」と言う発音には「清浄」という意味を持っている。だから、月は「丸くて清浄なもの」を意味するので「つき」と発音するんだ。なんてことになるんです。んじゃ、「きつつき」はどうよ?
神道的な考えは既に出来上がってる言葉から意味を抽出するのです。「言」と「事」の音節の意味が一緒という考えではなく、音が同じだから影響し合うって事。(この辺説明しづらいね

言霊と忌み言葉(忌詞)

言霊って、実際には忌み言葉と密接な関わりを持っています。
つまり、言っちゃいけない言葉。タブーとして存在するのですね。起こっちゃ嫌なことを言わないと言う思想。
死とか病とか、起こっちゃ嫌だから平時でも言わない。
ほら、病院では4階がないなんてあったでしょ? 4とか9が、死や苦に繋がるから起こっちゃ困るので同じ音を発生させるのもダメって話し。ほら、聞く人が聞き違いしたらいやジャン?って乗りだったりしてね。
いま、病院のお見舞いで「シクラメン」はダメとかあったりするんですよ?
他にも鉢植えは根が張るっててんでダメだったり。田舎の地域だとね。
私は綺麗な花だったらなんでも良いけどね〜。
でも、対人関係を重視する日本では(つまり和の精神ですね)、相手が勘違いしそうなことは避けるっていうのが理想。相手に、シとかクって音で変な風に勘違いされるくらいならハナから言わなければ良いや! っていう実に日本的な感情とも言えましょう。
延喜式では忌詞として伊勢神宮での置き換えについて書いてあります。*2

  • 内七言(仏教関連の用語は神道には用いない
    • 仏 - 中子(ナカコ)
    • 経 - 染紙(ソメカミ)
    • 塔 - 阿良良岐(アララキ)
    • 寺 - 瓦葺(カワラブキ)
    • 僧 - 髪長(カミナガ)
    • 尼 - 女髪長(メカミナガ)
    • 斎 - 片膳(カタシキ)
  • 外七言(仏教以外の忌み言葉
    • 死 - 奈保留(ナオル)
    • 病 - 夜須美(ヤスミ)
    • 哭 - 塩垂(シオタレ)※泣くこと
    • 血 - 阿世(アセ)
    • 打 - 撫(アツ)
    • 宍 - 菌(クサヒラ)※肉のこと
    • 墓 - 壌(ツチクレ)
  • 別忌詞
    • 堂 - 香燃(コウタキ)
    • 優婆塞(ウバソク) - 角筈(ツノハス)※仏教の在家信者のこと

もう一つの言霊:ウケイ(宇気比、誓約、祈、誓)

神道に於いて、もう一つの重要な詞の概念にウケイがあるんです。言挙げとも言います。
古くは占いの一つですね、古事記日本書紀の重要な場面で良く出てきます。
古代の日本の裁判方法の一つにクガタチ(盟神探湯)というのがあります。日本書紀の允恭紀では、甘樫丘の辞禍戸崎(コトノマガエノサキ)で氏姓を詐称するものが増えたため、その混乱を正すための処置として行われたという記述があります。この土地名「辞禍戸崎」ですが「言の紛え」=「間違えた言葉」=「嘘」という繋がりになりますね。辞禍戸崎というのは、言葉の虚偽を正す場所という意味合いですかね。
熱湯に手を入れて焼けただれなければ真実、火傷をすれば嘘って言う裁判方法ですが、まあ、野蛮ちゃー野蛮だね。ただ、犯罪の抑止効果は非常に高いかもね。古代人の知恵の一つでしょう。
さて、ここからがウケイについてです。ウケイも同じような裁判方法でどっちかというとクガタチよりは穏健(クガタチの方が後期に出来た方法って事も関係してるのかもねぇ)。
例えば、地上から高天原に登ってきた須佐乃男に高天原を奪うなどという邪心のないことを天照大神に示すためにウケイが行われています。(アマテラスとスサノオの誓約)。ここでは互いのものを交換して、それによって生まれた子の性別で判断をするってルールなんですが、その結果、(古事記記紀によって性別は違いますが)スサノオが勝って滞在を許されるのですね。
つまり、「これからこれこれを行って、このような結果をだすぞ」って宣言する。そして、その結果がその通りになれば吉事でそうならなければ凶事であるって事。
つまり、声に出して表明するって事と有言実行という概念が尊ばれると言う部分がウケイの基本。

その他、雑事

古事記の国生みでも言葉は重要な役割を持っています。言挙げの別バージョンとも言えます。

伊邪那美命
言阿那迩夜志愛(上)袁登古袁【此十字以音下
效此】後伊邪那岐命言阿那迩夜志愛(上)
袁登賣袁。各言竟之後。告其妹曰。女人
先言不良。雖然久美度迩【此四字以音】興而。
生子水蛭子。此子者入葦船而流去。

ってな感じなので、現代語訳!
イザナミ「なんて素敵な男の人」
イザナギ「なんて素敵な女性なんだ」
イザナミ「女が先に声掛けて良かったのかしらん……」
んで、そのあとやることヤって、子どもが生まれたら水蛭子だったので葦で造った船に乗せて流した。

って、感じの話です。
話す順番が違えるだけで、思わしくない結果が出ちゃうって信仰でしょうか?
(まあ、フェミニストが見たら怒り狂うんだろうけどね)

まとめ

言霊は二つの系統に分類されます。
一つは、忌み言葉として「起きると嫌な事と同じ音の言葉は発さない」
もう一つは、ウケイとして「言った言葉が実際になるかによって自分の正しさを求めた」
おおよそこの二つが言霊を理解する上で必要な所だと思います。
 
それぞれ、忌み言葉は「聞いた相手が、聞き間違いしても不快に思われない言葉を発しよう」という思考とも言えますし、ウケイは「もし失敗したら、それは自分は正しくなかったのではないかという自省」としても機能します。
この二つの概念は日本人の「和の精神」や「恥の精神」にも繋がる特質でもあると思います。
レヴィ=ストロースの言うような「野生の思考」と同じように、プリコラージュされた思考の技法なのかも知れませんね。

*1:ソシュールはこのように必要となる状況を「価値」と言いました。

*2:国史大系26巻