似非科学が広がる理由

先週の一連の記事を読んでおくと(わたしが)シヤワセになれそうな悪寒がします。
http://d.hatena.ne.jp/tot-main/20070115#1168874345
http://d.hatena.ne.jp/tot-main/20070116#1168933119
http://d.hatena.ne.jp/tot-main/20070118#1169100640

前回からの流れ

科学も宗教もその目的は「解らないと言うことを解決する」事が目的でした。
「何故、人は人として存在するのか?」という命題を、方や科学では「進化論」に求めましたし、宗教では「創造論」に求めました。
科学では人を「パンツをはいたサル」として、宗教では「神様の泥遊びの結果」と言う話し。
どちらも、「何故、人は人として存在するのか」と言う疑問を答えるための装置としてそれぞれ規定しています。

同じ装置なのに何故科学が優勢なのか

同じ結果を出すのに、科学では「沃化銀やアセトン溶液を燃焼させた物を大気中に拡散させる」方法を採るし、宗教では「神聖な枝に水を浸して水滴を飛ばす」方法を採ります。
結果は双方ともほぼ100%の成功率です。
なんで? って思われるかと思いますが、宗教儀式によって降雨を庶幾う場合地域によっては「雨が降り出すまで続ける」所や、雨が降らない理由を宗教儀式の他の部分に理由を求めるからです。
ただ、即効性という面から見ると科学の方が即効性があると言う事になります。
人間は、合理性を求める傾向がありますから、同じ100%の成功率なら早いほうを選択するって言うのが人情だとおもいます。
その為、科学の方が現在では優勢になるのです。

水からの伝言は宗教儀式か?

多分答えはYesだと思う。
何故か? 実験と称する儀式を行って、綺麗な結晶ができたものだけを峻別して「成功例」として上げるわけですから。
その仕組みは、宗教儀礼のそれとまったく代わりがありません。
そして、失敗した理由が「綺麗な心で綺麗な文字を書かなかったからだ(笑)」なんて事にも成りかねませんしね。
私みたいな心がどす黒い人間には一生綺麗な結晶はその理論だと出来ないんじゃないかと、危惧しておりますよ? ええ。
この辺りが、科学と違うところでして、現在否定的な科学者の皆さんは反証実験は無意味だと言う所以でもあります。
にた感じの事例に、常温核融合の話しがあったと思いますので、調べてみると面白いかも知れません。えぇ。

似非科学が好まれるわけ

オッカムの剃刀って言葉があります。
「現象を同程度うまく説明する仮説があるなら、よりシンプルな方を選ぶべきである」
と言う奴ですね。人間シンプルな方が美しいと感じるわけですよ。
ただ、そのシンプルな仮説が常に正しいかというのはまた別の問題です。

例えば水からの伝言の場合
大前提として「綺麗な言葉を掛けると綺麗な結晶が出来る」を上げます。
この大前提の真偽はともかく、この現象を説明する一番シンプルな方法が、なんだか良くわからない波動理論なる物が一番シンプルな訳ですよ。

真っ当な人は、この大前提から疑うわけですが、こういう現象があるんだよ!って強くいわれると「そうなんだ、へぇ」なんて思っちゃう人がいるのが似非科学の第一段階ですね。
この辺、宗教と一緒なシステムが働くわけです。
「神様って居るんだよ!」→「そうなんだ、へぇ」なわけです。信仰の第一は「神を無条件に信じること」にあるわけですから。
この大前提を疑いもなく受け取っちゃう人はやっぱり、「騙されやすい人」になるんだと思うんだけどね。
「納豆がダイエットにいいんです」→「そうなんだ、へぇ」
「全ての労働者は搾取されて居るんです」→「そうなんだ、へぇ」
「日の丸掲揚は軍歌が聞こえるんです」→「そうなんだ、へぇ」
「目標は美しい国日本です」→「そうなんだ、へぇ」

自然科学は単純に出来ているかもしれないが、世の中は単純には出来ていないって事ですね。

第一前提を疑わずに受け容れられる人

っていうのは多分、こういう似非科学とかを疑似宗教*1とかを信じられるんだと思う。そして、それを信じる人が多いのも事実です。
この件に関して、ローマのカエサルの言を引用するならば「人は見たいと思った物を真実として信じる」です。
似非科学を受容できる人種ってのが居るって言うのは、このあたえられた大前提を否定しない人なんだと思う。
神様を信じてる人に共産主義者が神は居ない!って幾ら叫んでも改宗する事は出来ないと思うのよね。
この辺が、アレですよ現在ネットで行われている「水からの伝言」と「水からの伝言を信じないでください」のやりとりなんだと思う。
科学者を共産主義者って言うのはアレですが、歴史から見た時に仕組みとしては同じ仕組みが成り立っているのよね。

脱洗脳プログラム

ここで、登場するのが脱洗脳って奴ですね。ぶっちゃけると「再洗脳」と言うような用語にしても良いくらい。ようは、社会に適合するように洗脳し直すってのが脱洗脳ですから……。
だから、多少押しつけがましい形になるんじゃないのかな?
次に問題になってくるのが、「社会に適合する様に」ってのがネックになってくるわけですが、それって誰が決めるの? って事になるわけですよ。
立場としては2通りの考え方が成り立つのね。ディスユートピアのような管理社会を美と考えることと、一つはオウムみたいに社会的に犯罪が成された集団の洗脳を解くのは可で、社会的に不都合無い物はスルーするって立場です。
世の中色んな洗脳があるわけでしてそれぞれ解除なんてしてらんねーよってのが本音ではあると思います。
水からの伝言の場合はどうかというと、実際問題として社会的に犯罪に繋がる内容は無いんですよね(そりゃー、風が吹けば桶屋が儲かる式な弊害論はあるでしょうけど)。
だから、脱洗脳はしなくても良いんじゃない?って考えに至るわけですよ。この辺が私のポジション。
自分が子どもの頃って先生の言った事って絶対じゃ無かったので……。
うちの小学校の頃の先生はバリバリの日教組で子どもの時分から変な奴と思ってましたし、彼の社会と道徳は話半分で聞いてましたよ? 小学校の頃からひねてたってのは置いとくとして……。
でも、ああ言う反面教師みたいなのが一人いるとあれだね、真実ってのは人から教わる物には無いって解るんだよウン。
いまみたいにネットってのが普及してないので、変だなーと思っても取捨選択だけしかできないと言う状況からは脱しました。いまの子どもって、変だなって思ったときにネットで調べる事が多いと思う。
そして、子どもが変だなって思ったときに調べてみたら、そこには「否定論者」の説明があるページが出てくれば良いんじゃないかな?
と言う感じの、消極的脱洗脳推進論者だったりするのです。

少し話しを戻して

第一前提を何故にそう簡単に受け容れられるのかと言う疑問が残りますね。
哲学の「判断停止」とかじゃなくて、ただ単純に真実だと信じちゃうの。
何事も疑えって言うのが、科学的素養というのなら、単純に受け容れる人を宗教的素養のある人って言うのかな?
ある種素朴な人――。
ただ、いまのご時世生きづらいだろうとは思いますよ? 生き馬の目を抜くって話しじゃないけど、よそ見をしていたら足下をすくわれます。
良い悪いじゃなくて、損得の問題ですから本人が納得していればいいんじゃまいか?
と、思いつつもお節介を書きたくなるって言うのはアレですねそう言う性分だからでしょう。
ただ、「それを信じることで、誰が得するのか?」ってのは覚えておくと良いかもしれません。
宗教であれば教団が潤いますし、似非科学ならカルト商法が儲かります。
「鰯の頭も信心から」と言いますが、きょうび鰯の頭だって金が掛かるんです。鰯の頭を信じるとして、一体払った金が何所に行くのかは知っておくべきでしょう。

中間的なまとめ

水からの伝言は科学非科学という次元で話しちゃうと、平行線をたどると予想するので新たな視点が必要なんじゃないかな? と言う発想を元に書き連ねてみました。

*1:既存宗教や新興宗教とは明確に区別しています。