例えば昔話「桃太郎」に倒された鬼の家族の物語

も考えなきゃいけないような情緒教育は荒廃するだろう。
例えば「仮名手本忠臣蔵」の四十七士に倒された吉良上野介高師直)は勧善懲悪だからこそ物語として引き立つのではないか?
歌舞伎もゲームも「娯楽」を生業とする物だ。
どちらも、少しの現実に大きな脚色を与えるから面白いのであって、史実をつぶさに説明するなんて言うのは無粋の極致。
それこそ、そっちの方が情緒教育に弊害があると思うのですが?
 
八百屋お七は悲恋だからこそ切ないのであって、「放火禁止の教訓話」にしてはいけないという話し。
「降り積る、雪にはあらで恋といふ、その愛しさの心こそ、いつかは身をば、崩れはし。」って所に情緒を感じる物でしょう?

倒された者の家族はどんな気持ちか??など、「ゲームに描かれていないもの」を考える

大体ゲームで、スライムの悲哀とかどうやって説明するんねん。
大体「リテラシ」ってのは「読み解く力や能力」を指して言うんだ。
ゲームリテラシなんてーのはたくさんのゲームをやってゲームの中に登場する『記号』を読み解く能力の問題。
実際にやらないで培われるリテラシなるものは幻想だろう。
ゲームに出てくるリアルタイムの情報を解析して記号化する。そして、それを読み解いて操作に当てはめる。これがゲームリテラシじゃないの?
漫画のリテラシは「コマを読む能力」記号化された登場人物の思考を読み解く能力がリテラシです。
 
昔、RPGNPCがメタな事を言っていたな
「勇者ってのは武具で身を包み、勝手に民家に押し入り、当然のように金品を強奪し、モンスターだと言うだけで罪の無い生き物を正義の名の下に無闇に殺し、あまつさえ倒れて動かない生物から身ぐるみ剥いだり、常に無言で、尊大で、住民に畏怖を与えているだけの存在」
これぞ勇者だ。
果たして真実ではある。
 
だが、ドラクエをしてたから泥棒になったって話しはついぞ聞いたことがない。
「俺は勇者だ!だから、勝手に民家に入って冒険に必要そうな物を持って行ったっていいじゃないか! 魔王倒さないとならねーんだよ! 魔王!」
などと訳のわからないこと言い始めたらあれですよ、ゲーム脳とか以前の精神的疾患であると思うんだけどなぁ。