ご丁寧なレスが届いたので

引用しつつお返事を書いてみます。

akky20050605 『>Akky/吉田照彦氏の勘違いは日本人=日本国民=日本政府って言う考え方にあるんだと思います。

日本国民=日本政府なんて僕は少しも考えていませんよ。
「日本人」とか「日本」っていう概念って、この国では幕末以前、ヨーロッパではフランス革命以前にはなかった近代的な概念ですよね。司馬遼太郎氏のいう“nation”と“state”という括りでいえば、いまでいう「国家」というのはstateのほうになりますが、僕がいいたいのは、この“state”の意味で使う「国家」というものには、すべてナショナリズムの概念が入っているということです。日本人だとか中国人だとかアメリカン耳朶とか、すべてを国家という単位を基準として考えるわけですからね。

司馬遼太郎氏の括りが私には解りませんが、辞書の定義として「State=政治権力として, あるいは教会に対するものとしての(1つの集合体としての)国家」というものと対比して、「Nation=民族, 種族.言語・宗教を同じくするが1つの国家にまとまっているとは限らない」と言う意味で使っていると判断して良いのでしょうか?
日本人=日本(と言う"state")のことを指してると判断して良いのか? それとも、Nationと言う概念の事を指しているのか理解できませんでした。よろしければ補足をお願いします。

補足が入ったので
この部分ですが、つまり、「国家」という概念さえなければ「日本人」だとか「中国人」だとか「アメリカ人」だとかいう発想さえ生まれてこないということです。「何人(ナニジン)」なんていう括り方をすること自体に、ナショナリズムが潜んでいるということを僕はいいたかったのでした。

国家がなければ、国家に属する人は居なかったんじゃないかという発言には疑問を提示させていただきます。国家がなければその人の属する共同体が国家の役割を果たすからです。例えば江戸っ子であったり、薩摩隼人であったり、さらに言えば○○村の〜って言うのはあったはずです。それは、小さなナショナリズムではないでしょうか?

人が生活する以上何かに帰属して生きるというのは普遍の真理だと思います。それは、家族であったり、地域であったり、共同体であったり、国家であったりします。そして、グループを構成する共同体にはルールや掟、方針と言ったものが存在します。私はそれを「政まつりごと」と思っています。
上記理由により、民と政を混同してるのでは無いでしょうか?と言う発言になったのです。

補足して言えば、近代国家の成立は他国からの侵略を防ぐと言う側面と資本主義経済を支える根幹という側面において有用であったわけですし、何よりこの仕組みが、効率的であるから現在でも存在しているわけで、否定することに意味合いは薄いと感じております。

愛国心教育ナショナリズムの押しつけを感じてそれを拒否するという心理は分かるんですが、なぜ同じナショナリスティックな概念である「国家」という概念を否定しないのか、と僕はいっているわけですね。

近代国家において、アナーキズムの立場としては国家の概念の否定は良いかと思いますが、私の立脚点は国家は必要悪であり、国民がコントロールすべきだと思っています。
つまり、「ナショナリズムの否定」が直接「国家の否定」には繋がらないと言う立場です。
具体的に言うと、国家とナショナリズムが分離不能であるならば、国民がナショナリズムの影響を和らげる方向にコントロールすべきという立場です。

toto-mainさんが引用している筒井さんの一文の中の「全世界的に人口は増加しているんだから、地球環境的にも出生率の低下は望ましいことです」という一文がなぜナショナリズムからほど遠いところにあるかといえば、国家という枠組みを飛び越えて考えているからですよね。地球規模で考えたら、日本の少子化なんて別に問題じゃないでしょと。
ナショナリズムを徹底的に拒否しようとするなら、国家単位で物事を考えるのはおかしくありませんか? というのが僕の意見です。』 (2006/06/15 16:45)

世界規模の視点って意味では同意できますが、人間の意識として、「共同体理念(血族と地縁と大地の理念)」を世界規模で想像することは難しいと思います。
共同体として認識できるのはせいぜい国家止まりでしょ? って言うのを逆に、筒井康隆は言いたかったのではないでしょうか?(非常に穿った見方だとは思いますが)

補足
筒井康隆氏はSFの旗手でもありましたし、違う視点から見える世界を提示する事に非常にたけた人物でもあったので、私はそう言う「(世界規模からの)見方もあるんだよ?」という事を言いたかったのでは無いかと思います。逆に言うと普通の人の視点はそう言う見方が出来ないんだよねって言うアイロニーを感じるわけです。
だから、「全世界的に人口は増加しているんだから、地球環境的にも出生率の低下は望ましいことです。」という部分にグロテスクさを感じるのだと思います。

そう言った意味で私が取る立場は2つに成ります(どちらも意味は一緒ですが)。

  1. 国家単位で物事を考えるのが限界なのだから、ナショナリズムの徹底的な否定は不可能である。
  2. 国家は必要悪と言う立場からも国家(ナショナリズム)の否定は無意味でコントロールすることが肝要である。