教義論と機能論

宗教を敷衍して考えるときに気をつけねばならないのが教義論に引っ張られるって奴です。テレビなどのメディアに良く登場する。似非知識人が引っかかるのを見ることが出来ます。
「宗論はどっちが負けても釈迦の恥」って言いますが、それこそ宗派毎に教義が違うわけでして、下手に新興宗教などに突っ込むと嬉々として説明し始めるわけですわな。
そりゃー、幾ら似非知識人と言えども多少の脳みそあって推論能力が有れば気付きそうなもんですが、さもあらん。教義論に引っ張られて根本問題にたどり着けないなんて現象がまま見られたわけです。特に、早稲田大学大学院理工学研究科卒業で有名になった宗教団体幹部のパフォーマンサに良いように引きずり込まれてるのを見て「ださっ」とか思ってたわけでありますがね。
宗教は社会に対しなんらかのアクションを行います。このアクションを評価する。
つまり、「社会機能としての宗教」って視点が必要なのだと思うのですね。
哲学の用語に「エポケー」ってのがありますが、宗教の教義に関しては徹底して判断を停止しておく、そしてその教義がどのような論理構成で成立したのか、そして経験則に則ってその教義が世界と相対してどのように構成されるかについてのみ価値判断を置くことが必要だと思います。
 
あくまで、私の目指すスタンスって奴ですがね。