自己の無謬性を疑う事が生き残り戦略だと思う。

ある理論を弾圧するには、自己の理論の「無謬性」を信じることが、その根底にある。
全ての人間は間違いを犯す可能性がある。と言う人類の第一定義を認めているのにもかかわらず。具体的な部分に於いてそれを認めないというのも、その間違いの一つであろう……。

自らの信念のもと、強引に実行に移し、既成事実を作ってしまうか、あるいは、反論の必要を認めず、人を洗脳するかのように自らの考えを広めることが最適だろう。そして、それを行う場としてブログは全く相応しくない。

確かに言うとおりである、自らの信念は信念であるが故に「無謬なもの」として定義せざるを得ない訳で、そこに反論はあってはならないと言う思想が必要だ。
そのためには、万人が反論できる場に論を掲示するというのは大きな間違いと言える。
(まあ、しかしながらそこまで自己の思想に無謬性を信じて疑わない人は「狂信者」と言えよう。故に、「大いなる皮肉だなぁ」と私は感じたが)
 
しかしながら、自然科学の論文ですら「反証可能性」を持って是としているのに、正しい答えという物がそれぞれの価値観に於いてまったく逆の様相を呈する物に「反証可能性」を与えない理論など、ただの駄文に過ぎないのではないか?
反証可能性」を持たない自然科学の理論は常に「似非科学」として糾弾されるが如く、「反証可能性」を持たない全ての(政治、宗教、経済、倫理、生活に関わる全ての)議論は、「似非議論」であると言えるかもしれない。
似非科学が宗教と相似であるのと同じく、似非議論は宗教書との相似である。と、言うしかあるまい。
ぶっちゃけ、「反論されるとイヤだから発表なんてしない!」って言うような専門家なんてそもそも要らないと思う。
PlanとDoしか出来ない人は、ネットに限らず生き残れないと思う。See、つまり見直しの出来ない者はそれ故淘汰されるのではないだろうか?
自己の無謬性を疑う、これが生き残り戦略の基礎ではないだろうか?