カント:『実践理性批判』に関する覚え

定言命法とかって小難しく書いてあるけど、

  1. 意志は自分で決めるべきだ
  2. 決めるべき意志の指針は他人に当てても問題ないようにしなければならない
    1. 補足:「嘘をついても良い」だと他人に当てはめたときに自分が嘘をつかれるからいけない。だから、「嘘をついてはいけない」になる。

ッテ事だよね?
良く子どもに教えるときに「自分がやられたら嫌でしょう?」というのと同じ理論なわけだ。
 
そして、常に真である以上、どんなときも「嘘はいけない」と言う事になるわけですね。
定言命法定言命法が対立する場合にどちらかは切り捨てなければならないじゃないか。
「友人を守らねばならない」という定言命法と「嘘はいけない」という定言命法が対立する場合などだ。友人を守るために偽証する場合は、友人を守るべきなのか自分を守るべきなのか?
裁判の席で偽証は「いけないこと」と認識するだろうし、殺人鬼から逃げてきて匿っている最中に「居ない」と嘘をつくのは「ただしいこと」と認識するのではないか?
常に一定の指針を守るっていうのはそれこそケースバイケースを無視してるよねぇ……。
だから、カントは嫌いだ。
 
いや、むしろ定言命法って存在を私は疑っているわけですよ?
いまさらですが、定言命法ってのは「〜〜〜してはならない」と言う無条件の禁止事項を言うわけです。ちなみに、「〜〜〜だから、〜〜〜してはならい」と理由づけがある場合は仮言命法と言います。
カントの言う定言命法って「自分がされたら嫌だから〜〜〜してはならない」と言う仮言命法のことを言ってるんじゃないかなぁ? と、倫理学とか哲学サボっていた私が思っちゃうわけです。(多分大いに間違って居るんだろうけど。)

一応、「人の嫌がることはしない」という功利主義な解釈ではない事は解ってますよ?
「自らの取る行動が、他の人も同時に実施しても問題はないか?」ですから。
そもそも、カントの目指したものは人間の幸福ではないわけですからね……。
 
あ、私はもちろんバリバリの功利主義者です。