倫理・宗教・法律以外での道徳

面白い思考実験だと思う。倫理・宗教そして法律を除外した形で道徳を問う問題。
道徳とは何か? 突き詰めちゃうとゲーム理論において、最大幸福を得るための最適解」に成るんじゃないかと仮定する。
ゲームとして、みんなが幸福状態に成りうる選択肢。これが道徳なのではないか?と言う理論。

まあ、もちろんこれは「倫理」の問題なんですけどね。

私の関心から言えば、「なぜ赤信号??」と「なぜ人を殺して??」は同等に困難な問いであって、後者が扇情的すぎて過剰反応を招きがちなのと比べると、前者を話題にしたほうが面白そう。

ゲーム理論的な解

先ず簡単な、信号機のない交差点で考察。運転者が渡っている状態で歩行者が渡ると言う戦略を採った場合は事故が起きる。この場合は、歩行者が損をする。(まあ、現実社会に置いては怪我の度合いによって、保証金の方が上回ると言った逆転現象もあり得るだろうが、基本的に事故が起きた際は歩行者が損をするという考え)

歩行者\運転者 渡る 渡らない
渡る 事故 無事故
渡らない 無事故 無事故

つまり、歩行者が取る戦略は、車が渡っている時に渡るのは損なわけ*1ですから、このゲームに勝利するためには「車が渡っているかどうか」を見極めて自分が行動する事が勝利を分けるわけです。
だから、道徳的には「信号のない横断歩道では左右を確認して車が来ないことを確認して渡る」という表現に成るのではないでしょうか?
但し、このゲームにおいて「事故が起きた場合歩行者(今回は行為者)が損(負け)をするという認識」が有ることが十分条件です。

殺人と言う非協力ゲームとフォーク定理

人殺しも同じではないでしょうかね?
非協力ゲームにおいて、やられたらやり返すと言うのが一番効率的な勝利の方法ですから。
TFT戦略*2ですね。最終的には協力解が得られます。

自分\相棒 殺る やらない
殺る Lose-Lose Win-Lose
やらない Lose-Win Win-Win

勝つだけなら、殺る方が利得は大きいですが、相手も同じ行動を取る可能性が有るため同士討ちという共倒れの危険が有ります。最小利得を得るのが目的ならば、お互い殺らないと言う協力解がゲーム理論的には良いという話し。
ぶっちゃけ、「やられたらやり返される」だから、お互いやらない方がお得。これを普遍化して人を殺してはいけないという道徳に成ったんでしょう。
 
子どもの頃の砂場での経験を思い浮かべてみてください。
相手の作っている砂山を崩せば(Win-Lose)やり返されます。(ヘタをすると力で対抗されます)(Lose-Win)。
そして、やり返されたらさらにやり返すと言った、戦略的な報復行動が登場します。
もちろん、お互い痛い思いをします(Lose-Lose)。
そして、子どもは学ぶわけです「やったら報復があるから、やらない方が良い(Win-Win)」(フォーク定理)
これが、道徳の発生でしょう。

赤信号をゲームする

まず、赤信号が見える側の歩行者と運転者は停止する。青信号が見える側の歩行者と運転者は通行すると言うルールが、過半数の人数によって認知されている世界が有ったと仮定(過半数以下の人間が信号の色は識別できるがルールとして認識していない場合)
先ほどの信号機のない交差点と同じように、事故が起きたら歩行者が損(Lose)という概念の基で考察すると、青信号では100%の運転者が通行する。赤信号では50%以上の確率で停止する。
100%の運転者が通行する交差点の直角方向の信号機は赤である。
解りやすいように交差点ではなく、一本道に歩行者用の信号がある道で考えるならば負ける確率は下の表のようになる。(常に車が通行している理想状況下での話し)

歩行者の行動\歩行者から見える信号の色
渡る 事故率100% 事故率50%以下
渡らない 事故率0% 事故率0%

まあ、渡らなければ事故は起きませんが、ゲームの勝利には成りません。いずれかの状況で「渡る」という行動を取らないといけませんから、負ける確率100%の状況で渡るよりは、事故率の低い青の信号で渡った方がお得なわけです。
ただ、過半数以下の人が青信号でも渡る場合は、事故率は半分以下だけど車が通行しているかどうかを確認する必要がある。とだけ覚えておきましょう。
 
次に問題になってくるのが、いかに青信号で渡ったときの事故率を減らすかという問題。
一番簡単なのが、赤信号で止まらないと損をするぞと言う共通認識を持つことが事故率低下への近道です。

歩行者:運転者\信号機
渡る Lose-Win Win-Win
渡らない Win-Win Win-Win

この場合の協力解はお互い赤信号で止まる。これが最適解です。運転者の取る行動の場合は常に渡るでも最適解ですが、運転者も歩行者に成る場合がある時は、先ほどの殺人のゲームと同じで協力解である赤信号では渡らないが最適解になります。
 
そして、この最適解を補強するために、法律による規制によって運転者にデメリットを与えたわけです。赤信号で止まらないと損するぞと認識できた時点で赤信号は止まらなければ成らないと言うルールが強化されたと言う話し。
信号機自体は人類が発生した当初からあったわけではなく、日本では明治元年に初めて設置された新しいルールです。何で赤なのかとかは、その設置したときにその色だったからでしかありませんし、当時の開発者が紫色を止まれにすると決めていたら今は、紫は止まれになってたでしょう。別に色によって止まらなければならないのではなく、特定の色で止まらなければならないというルールがあるって事だけでしょう。
(先に色ありきではないと言うこと)
 
そして、何故“禁止”なのかというと、このような最適解がある場合において、それを犯すというのはタブーだからです。
この場合の「タブー」とは民族学的な意味での用語として「本人だけでなく身近な者、あるいは同じ共同体の成員に被害が及ぶ」可能性があるからと言う意味において使用します。
この場合だと、赤信号で渡った場合(特に運転した場合)同じ共同体の成員に事故という形で被害が及ぶから「禁止」になるわけです。*3
つまり、赤信号で渡るというのは「誰にも迷惑かけてねぇよ!」のレベルを超えてしまっているから強い禁止に成るんではないかと。
ま、こう言うのを社会契約って言うんでしょうけどね。

*1:世の中はほぼ「非ゼロ和ゲーム」で成り立っています。

*2:Tit for Tat戦略

*3:民族学的な見地からだと「死」に近い行為を行うから打と言う見方もできますね。