気持ちの良い文章は危険かもな

呉智英というオッサンは胡散臭いので個人的には倦厭してたり(要は食わず嫌い)。
まあ、正論だと思います。
本来、刑法は復讐の代理として存在してますからねぇ。
近代法成立以前は部族による報復を取ってましたし。ハンムラビ法典196条の有名な語句「目には目を歯には歯を」は近代法成立の上で欠くことの出来ない重要な部分ですが、過剰な報復の禁止という側面から見て近代法という言葉に成るんだと思います。
ゆえに、報復は悪だとしている「識者と称する恥知らず」は近代法成立の理念を解っていないと断ずるのは正論だと思える(危険な表現手法ではあるが)。

イジメ自殺が社会問題となっている。新聞でもテレビでも識者と称する恥知らずたちが、おためごかしの助言を垂れ流して小銭を稼いでいる。イジメに苦しむ少年少女よ、あんなものが何の役にも立たないことは、君たち自身が一番良く知っている。唯一最良のイジメ対処法は報復に決まっているではないか。

ただ、近代法は私刑を禁止している。
なぜか? 別に私刑の連鎖が危険というわけではない。
部族社会と違って社会システムが複雑化してしまったからである。
社会システムが複雑化すると、価値観もそれに応じて多様化してしまう。
そのため、現在の刑法では「目には目を」という等価交換ではなく「生命刑」「自由刑」「財産刑」という3つの種類の刑罰に置き換えて、その罪に応じて刑罰を両替しているのです。
また、コストの面から見ても個人が復讐するには非常にコストが掛かる。
そう言った要請から近代法が成立したわけです。
つまり、現代において法律というのは復讐を代行してくれるシステムってこと(ここ重要!)
(この辺は、月末乗り越えたら言及していきます。)
 
ゆえに、復讐は道徳として正しい。には共感できますが、強くなれ(そして自らの手で報復しろ)というのは間違っていると言いたい。
法制史を理解している呉智英が「何故、近代法が成立したのか?」そして「なぜ、近代法が必要なのか?」を明言せずに、「復讐しろ少年法が守ってくれるぞ(皮肉)」と言うのは片手落ちだと思う。
少年法に疑問を提示したいのなら「適正レートでない両替がまかり通っている少年法がおかしいぞ」と素直に言うべきであると思うな。
 

あと、この呉智英の文章で共感したいじめられている人へ――

間違っても報復とか復讐はしてはいけない。
近代の法律は、人を裁くのではない。犯した罪を裁くのです。
君が幾ら正義を為して悪人に正義の鉄槌を下しても、裁かれるのはその鉄槌を下したという行為について裁かれるのです。
近代法において善人や悪人という価値観はないのです。
幾ら悪人でも、罪とされる行為を犯してなければ裁かれない。これがルールです。
幾ら善人でも、過程において罪を犯せば裁かれる。これが正義というモノの正体です。
 
君が正義のために起こした行為は善良の行為として行われていても罪になる。
だから、私人として報復や復讐はしてはならない。
だから、頼るべきは近代法です。それが近代法を容認している現代人の足かせです。
君は近代法を容認している現代において、近代法により守られている。
だから、報復を代行してくれる国家と国家によって認められた公人が君の代わりに復讐を代行してくれるぞ!
司法権力に頼りたまえ、近代法を容認する者への恩恵であり福音である。
親や学校や教育委員に頼るのではない、君を守るのは君の所属する集団の掟――つまり法律だ。

まとめ、呉智英は何が言いたかったのか

呉智英近代法の矛盾点を付いているようであるけど、成立に関わる理由を無視しているから矛盾点が見えているのではないでしょうか?
私が持っている呉智英の情報として、死刑を廃止して仇討ち制度をと言ってる人って認識があるのですが――
近代法の成立の理念は、
「賠償と言う相対価値に基づく(金銭と損害の)交換の理論」
「私人が復讐するコストの削減」
「万人がそれを公平だと認めて容認できる刑罰の体系」
の以上3つに集約されると思います。
 
法治国家であろうが王権国家であろうが封建国家だろうとも、常にその判断が公平に写っているかが刑罰――犯した罪に対する対価――として求められるわけです。
ゆえに、刑罰の処断は常に公平を求めているわけです*1
 
血で血を洗う報復劇が果たして公平か?
違うからこそ近代法が成立したのであって、呉氏がその辺を曖昧にして主張しているから胡散臭いオッサンに見えて居るんだなと得心した次第。
 
 
*このエントリは、BlogPet(ブログペット)の「讒言三号」が書きました

*1:もちろん、「法治国家」の公平と、「封建国家」の公平はまた微妙に違いますが……。