統計とは?科学とは? 反証可能性と相関論

いじめとゲーム時間の相関関係なんて、アホかと言いたい。
あまりにも悪意に充ち満ちているので、唖然としてしまった。
哀れみにも似た目でこう言おう!
「またゲーム脳か……」

 ゲームやテレビなどの影響も調査。小学校低学年の時にゲームが1日3時間以上、テレビ視聴が同4時間以上あると、小学生の時にいじめをする経験が多かった。

科学・科学的ってのは何か?

「反証可能なリスクを負うものが科学である」 ポパー

まず、科学的というのはどういう事か?
科学的理論の全ては、「一定の条件が揃えば、どの時刻でも、どの物質でも(つまり、すべての場合において)同じことが起きる」という法則を述べている。
これが、つまり科学です。
世にあまねく、似非科学なる物は先ずこの前提条件が消失しているのですよ。
ゲーム脳なんてやり玉に挙げやすいわけですが、「全ての人がそうなるの?」また例外があるならその例外発生条件は一体何?
この辺の説明が無いから、科学的ではないのですよ。と言われる所以。
私が心理学を科学と認めていないのはそのへんもあるかもねぇ。心理学は最後の錬金術だと思ってます。<それは置いておくとして
そして、科学の第二条件は「反証可能性」です。
 
ゲーム脳なんかは「帰納主義」ですね。ベーコンか貴様は!
だから、「ナマズが暴れるのは地震の前兆である」という俗説すら、「ナマズが暴れた→地震が起きた」という事例をたくさん集めれば、「科学的に正当な理論」だと言えてしまう危険性が帰納主義には存在するわけです。実際、此を唱えたベーコン以降の科学は教会との離別は出来ましたが、別の神秘主義に担ぎ出された過去があります。

似非科学の反証が難しい理由

非ユーグリット幾何学ってのがあります。
この幾何学ユークリッド幾何学とまったく反する公理を用いたにもかかわらず、なんら矛盾が発生しなかった。
どんな問題があるのかというとですね、古い時代には、「公理から組みあがった理論体系が無矛盾ならば、その公理も含めて、その理論体系が正しい」と信じられていたのですが……。
この非ユークリッド幾何学の発見により、理論体系の無矛盾性が、公理の「正当性」を表すことにはならず、まったく別の公理に置き換えたとしても、何ら矛盾が起きないことが明らかになってしまった事が大きな問題。
簡潔にまとめると、「適当・好き勝手に、公理を決めてしまっても、無矛盾な理論体系をいくらでも作り出せる」ということなのです。
 
つまり似非科学に見られる「自己破綻しているようなメチャクチャな理論」ばかりではなく、「どんなに眺めても矛盾のかけらも見つからないウソ理論」もあるわけで(擬似科学だから、きちんと賢い人が、じっくり問い詰めれば、矛盾がでてきて理論が破綻する、などとユメユメ思っちゃいけません。似非科学とは論理と関係ないのです)……。
この辺が似非科学糾弾の難しいところなわけです。

論理実証主義

あらすじ「帰納法による科学的手法は、似非科学も含む混沌とした世界になってしまった。かの非ユーグリット幾何学の登場で無矛盾な理論も適当に作れることが発覚してしまった。何を信じていけていけばいいのだろう」
 
と言うことで、帰納主義の弱点から混沌としてしまった科学界に颯爽と現れたのがウィーン大学の哲学集団。その名も「ウィーン学団だ!
彼らは論理実証主義を掲げて科学界に殴り込みを掛けました。
 
論理実証主義の手法

  1. どんなに複雑に見える理論も全て「hogeはhugaである」と言う言葉が集まって構成されている。(この短いセンテンスを「原子命題」と呼ぶ)
  2. 原子命題が「かつ(∩)、または(∨)、ならば(⇒)」という記号で組み合わさっている。
    つまり、「原子命題A∩(原子命題B∨原子命題C)⇒原子命題D」という具合。
  3. そして、出来上がった記号の集まりに「実験・観察から実証された事実か?」をチェックする。

もし、最後の段階で「実証された事実」かどうかに疑問が提示(未実証な事実が発見)されると似非科学と断定できるわけですよ。
 
ほーら、凄い便利!
 
……と、思ったでしょ?
ところが、世の中そんなに上手くはいかないのですよ。
例えば、手からリンゴを離したら足下へ落下すると言う事実が例え1億回も実証されていても、1億飛んで1回目に、空中に静止するかも知れません。
変な例えを出しちゃいましたが、つまりこう言うことです。「いくら観察データ集めたって、すべての場合については何も言えない」

厳密にすればするほど、本物の科学的な論理は存在しないことに為っちゃうのです。
相対性理論だろうと、量子力学だろうと、ウィーン学団に掛かれば似非科学のお仲間なのですね。

カール・ホパーと科学哲学

カール・ホパーはウィーン大学にいましたがウィーン学団については批判的だったようです。
『科学的発見の論理』でホパーは反証可能性について言及しています。
「あるシステムの検証可能性ではなく反証可能性が〔科学と非科学の〕境界基準とされる」
この辺がウィーン学団との違いです。
でもホパーは「科学理論は反証によって作られるべきだ」と考えていた訳じゃないですよ。
「Aは少なくともBではない」なんて理論の積み重ねなんて気持ち悪いですしね。
 
つまり、一般に「科学」といえば、「明らかに正しいもの」 「間違っていないと確認されたもの」というイメージを持ちがちですけど、実はそうではないと言うことです。
「反論されちゃう可能性がある物」を科学というのです。
ある意味では、科学の敗北宣言とも言えますね。
 
もちろん、この反証可能性についても問題はあります。
特に現在の高度に発達した科学に於いてはすべて、前提条件によって成り立っています。
だから、実験を行って等の理論とは異なった結果が出てきても「それは、前提となる条件が異なっていたからだよ」と言い逃れできる機会が増えていると言うことです。
こいつの問題点は、理論が間違っているのか、それとも前提条件を満たしていなかっただけなのか峻別できる物が無いという大きな問題点を抱えてしまうのでした。
 
まあ、もちろんホパーもその点については気付いていました。
「結局、このような疑いを乗り越えて、何らかの科学理論を構築するためには、どこかで疑いを止める地点を<決断>しなくてはならない」
つまり、結局科学は決断という「思いこみ」で成り立っていることを否定出来ないのです。

追記――と言うオマケ

まあ、「水からの伝言」とかあるようですが、信仰モードに入っちゃってるのを説得する手段に、反証実験は無意味だろうなぁってはなしにもなっちゃうねぇ。
具体的に言うとだ――「ある実験Aが正しく実行された」と述べるためには、「その実験で使っている装置が壊れていないこと」が必要ってこと。んで、その装置を調べるために実験Bが必要で実験Bの装置が壊れていないか調べるのに実験Cと無限ループに突入しちゃうわけです。
 
つまり、「ゲーム脳」も「水からの伝言」も病巣は一般科学にも言えることで、違う神様信仰している言わば宗教戦争のようなもんだと言えるのではないかなぁ。
 
「4つの大いなる力*1」を信仰している一般科学から見た異端宗教にゲーム脳水からの伝言が入ってるわけですよ。

そのへんが、科学の限界点じゃないかな?
別に良いとか悪いとかという価値判断じゃなく単純な限界論な話しだけどね。

ほら田舎の界隈じゃ、仏様を信じながら神社で祈祷したり、場末の占い師の言葉信じちゃってる人居るじゃない? カルトな教団とかの異常な物を異常と断定するのは、科学じゃないんだなぁって。常識という信仰によってのみ倒せるのか。
ドラキュラも同じ事言ってたような……十字架をかざした主人公に「十字架や聖水など効かない、己の信仰で倒してみろ」的な言い方をしてましたねぇ。記憶にある名シーンです。*2(まあいいや)
大体さぁ、高校まで勉強している「古典」の科学とかさ、大学行くと「はい、あなた達の勉強してきた科学は間違いでした。これから習うのが一番新しい定説です。」てな具合に為っちゃうのよねぇ。ほら、ニュートン力学もさ高校までに習うけど「常に正しい」って訳じゃないよっていう限定条件が付く訳よ。頭こんがらがるよねぇ。
特にゆと弊な感じだと「円」と「六角形」の区別が付かない*3んだから。
イマまで円と六角形が同じ面積だと思ってた人が、まったく違うもんだ!と言われたらヘコムよなぁ(大げさですが)
こと、科学の教育に於いてはそんなことは日常茶飯事と言うことでしょう。
 
科学の立場から似非科学をどのように扱うべきか、つまり「破門」するのが良いのでしょう。
同じ科学として取り扱ってあげない。
どっかの科学アカデミー辺りで、この「理論は破門だ!」って叫べば?
これが一番効くのでは? 大丈夫、そんなんで信仰をなくす宗教じゃないだろうから(笑)
ピューリタン革命とか起きない限り大丈夫だって!
 
ま、冗談は良いとしても……。
科学という幻想の上で成り立っている社会の根幹を成している科学ってのは、実は思いこみやら間違っているかも知れない可能性の上で成り立ってるんだよーって事。

取りあえず、「中谷宇吉郎さんゴメンナサイ」と言う綺麗な言葉で結晶でも作ってろ!
 
最新の科学哲学は知らないので知ってる方はフォローして欲しいな。

*1:もちろん、大きな力、小さな力、電磁気力、重力のことですよ?

*2:おそらく、キングの「呪われた街」だと思われる。

*3:円周率が3だと計算上は6角形と同じになる