エロゲーあまりにもエロゲー

演劇的な演出

いわゆる「純愛系ADV」を含めたエロゲーというジャンルは予算的な要請もあり、書き割りとも言える背景を使い回し、登場人物の会話によって成立する。
その面に於いては、エロゲーと演劇は非常に似通った構造を持っている。
登場人物の会話によって成立する以上、それぞれの登場人物には役割が付与される。それぞれの原型たるアーキタイプ。言い換えるならペルソナを持たせることによって会話を成立させる仕組みだ。
一番の違いはエロゲーが「覗き小屋」と同じように、主人公という小さな覗き穴からその世界を垣間見ているという点に尽きるであろう。
演劇の舞台のように世界を俯瞰するのではなく、登場人物の一人の小さな小窓から世界をのぞき見る。ココが大きな違いになるんだろう。

主人公と言う名の枷

いわゆる「純愛系ADV」なるジャンルは“愛される”主人公の物語であり、主人公はその愛に無自覚的な行動を取らざる終えない。また、一方で鑑賞者足る我々は、その愛に対して恐ろしく自覚的である。主人公とのこの乖離に於いて鑑賞者足る我々は歯がゆく思い、それ故苦しめられる訳である。
また、物語の必定として主人公たる主観的視点を通じた物語世界の俯瞰は、主人公を選ぶことが出来ないという宿命を同じく背負っている。

人格の匿秘性

主人公の枷が帰納的に背負わされているエロゲーと言うジャンルに於いて、不特定多数の支持を得るためにも主人公の人格は普遍的な形に変更する必要がある。
人格を薄める方法として現在使われているのが情報量の秘匿になるであろう。
多くのエロゲの主人公の自室が、寒々しい環境になっているのは上記のような理由が秘められているのであろう。
多くのゲームに於いて主人公の部屋は机、ベッド、絵には無い目覚まし時計、小さな本棚、ラジカセ、窓、カレンダーぐらいである。それ以外の情報は提示されていない。

メモ
実生活に於いてあのような部屋に置き捨てられたら発狂するはずである。
部屋には物があり、それが情報量となる。異常な事件があったときに、犯人の部屋の様子をTVが映し出すのはその情報量の驚異を見せるためであろう。

妹という重要性

エロゲーにおいての妹という重要性は、ひとえにギャルゲーにおける妹の重要性は、駄目男でも年頃の娘とひとつ屋根の下で暮らせるという奇跡が不自然なく実現される点に尽きるであろう。
(近親相姦的な物という禁忌という視点もあると思われるが、姉と違って妹という存在が多いのは、保護的な存在ではなくあくまで被保護的な存在としてのエロゲーの要請があるからではないだろうか?)

メモ

続くかも……。