表現者と鑑賞者との乖離
特に、何だって言う文じゃないけど、人の受けとり方って不思議だなぁと思ったので。
記事にしてみた。
実は、「意見表明」のキーポイントって、この「論理的」の部分を、どう周囲の人にわかりやすい形で伝えるか、なのです。「どういうプロセスで、その結論にたどり着いたのか?」こそ、「語るべきこと」のはず。
何処が面白いのかと言うと、コメント欄。
記事の要約(私が当該リンク先で理解したこと)
私は、この記事を「『論理的』って言葉だけで全て説明した気になるな!」って受け取ったんですけど……。
つまり、何かの表明にはその思考過程を提示しないと理解されないぞと言うこと。
逆に言うと、『思考過程の提示の仕方が論理的かを見分けるポイントで、感情を説明する際にも論理として正しければ論理的って言うんじゃない?』
「感情的」の反対は「理性的」で
「論理的」の反対は「非論理的」なんじゃないの?
っていう極めて国語的な話し。
だから、「感情的なことを論理的に説明する」って方法が採れるんだから。
当該リンク先の
奴ら、自分の感情(快・不快)を論理にすりかえやがる。
(しかも断定調・・)
感情でしか物を考えていないのに、
物言いがさも論理的なのだ。
っていう不快感の表明はあんまり妥当と言えないんじゃないかな?
以上のようなことを言いたいのだなと感じたのですが……。
さて、本題
上記のセクションで述べたことが私が感じたid:fujipon氏の記事の要約*1です。
レスが面白いのです。
例文の小泉首相が毎年靖国に参拝しているのって、論理的におかしいだろ!
と言う文は別に感情論で書いているとか理性的に書いているとかは問題じゃないのです。
聞き手としては、「首相が靖国に行くのはおかしいだろ」に対する思考過程が解らない。または、未説明だ。つまり、本来論理的に説明するはずが「論理的」という言葉を用いることで「トートロジー*2」になってるよ。
「小泉首相が毎年靖国に参拝しているのって、論理的にただしいだろ!」でも成り立っちゃう文なんです。
つまり、氏は「トートロジー」を意識せずに多用するような奴は信じたくないねっ!
って言いたいんだろうな。
これが、
『例文の「靖国参拝が論理的におかしい」ってのは、「靖国参拝がおかしい」という主張が論理的という意味ではなくて、靖国参拝を行う理由とその行動としての靖国参拝が「論理的に」繋がっていないのではないか?という主張なのではないでしょうか。』
『それって「政教分離」と整合しないということじゃないんですか?ずっとそうだと思ってたんですけど。』
といった意味に受け取り側が取れちゃうんだから、なかなか世の中侮りがたいね。
え!? 言いたいのそこだったっけ? ってもう一度見直しちゃったよ。
私の書く文章なんかだと、話しをスパイラルして外周をなめながら、だんだんと核心部分へ迫っていく、という書き方を意識的にしてる。だから、難解な文章になるんだろうなぁ。
捕捉した蛇足な補足
id:chanm 氏から補足が追加されたようなので、付記しておきます。
人の愚痴にケチつけるほど野暮でも酔狂でも無いけど、上記説明でどうしてもソースを紹介せざるを得なかったのです。(と、言い訳)
おそらく氏は、「幼稚な倫理則」を持ったまま成長しちゃった人間が、自己正当化のために一見それとは解らない、屁理屈を口走るのは、ちょっとなぁ……。
と、言いたかったのだと理解しています。
「幼稚な倫理則」を持ったまま成長しちゃうのはある程度諦めがつくけど、途中で身につけた小賢しさが「カワイゲ」まで奪ってる。
さらに、そう言った象限に存在する女性(また、男性も)は、何となく損して生きてるんじゃないの? って所まで話しが伸びるのかなと……。
- 追伸
- 例え「仕事と俺とどっちが大事なの?」って聞かれても、
「仕事やあなたより、まず自分が大事なのっ!*3」って切り捨てちゃう程度のカワイゲのなさは健在です。