結局ブロガーってヴォーカル・マイノリティーの別名なんじゃない?

反応先の「ことのは」問題については以前に言及した覚えがあるけど、記事になっていないので没ネタに成ったんだろうなと――と、言うことでネタになるほど大した話しじゃないと自分では分類していた訳なので、今更言及する予定は今のところありません。

ネットが実現したのは決して「絶対的正義」を振りかざす群れではなく、むしろ「相対的正義」を主張する何千万という小ブロゴスフィアなのである。それらは、時として確かに一つのターゲットに向けて、集中的に批判を浴びせる。


しかし重要なのは、それらに全て「自由」が保証されており、互いにチェックしあう反論の機会が与えられているということである。もしも今混乱があるとすれば、これらの小宇宙が、火花を散らしているのであり、何か「絶対的正義」を振りかざす一連の群れが秩序だって一つの対象を攻撃しているというのとは違う。

ブログの功罪って言うのは、サイレント・マジョリティ*1だった人々がボーカル・マジョリティー*2になったっていうのがあげられると思う。
ただ、全員の意見や意志が一致するなんて事はあり得ないし、一部分の意見を共有するって事はあり得る。その共有部分を小ブログスフィアと言うのならイメージとして捕らえることが出来そうだ。
ただ、サイレント・マジョリティーの群れが、ただ単にヴォーカルマイノリティーに移行しただけナンじゃないの? って疑問は払拭仕切れないと思う。
つまり、ブログの功罪は「サイレント・マジョリティーの集団を増やした」って事に成るんだと思う。

サイレント・マジョリティーの集団に「相対的な正義」があるのか?

自分の中での結論としては、否である。
ある種の問題に対して向いているベクトルの方角はほぼ一定でも、そこに加わる力は大小様々であろうし、方角自体も『ほぼ』一定と言うだけで同じ向きをしているわけではないからだ。
それを相対と言うべきかは疑問が残る。相対と言うには何かと比べる対象が必要だが、結局個人としては外に向けたモノよりも内側に向いたモノが中心となるので、対象自体が曖昧で拡散しやすいのでは無いかという不安はある。
補足:私の中で「相対」という意味は「Aと言う存在はBと言う存在があることで成り立つと言う概念」を相対と認識している。もしAと言う存在がBと言う存在の有無にかかわらず成り立つのは相対とは言わないと言う理論だ。


言葉が観念的すぎた。もう少し具体的にしよう。
TBやコメントが「互いにチェックしあう反論の機会が与えられている」というのなら、炎上という言葉は生まれないだろう。
それは、マイノリティーな自分に対するマジョリティー側の(もちろん、別な思想を持ったマイノリティーもあるが)批判だから、自分の中にある「絶対的な正義」を侵されたと意図を持って炎上と表現するはずだ。
別な例えをあげるなら、「イスラムの正義」と「キリスト教の正義」は相対ではないと言う考えである。正義はそれぞれ存在するがお互いを補完し合うものではない。


もしそれで血を流すというのならば、それは自己の思想に対する聖戦であって、相対正義の流血ではない。

*1:silent majority 声高に自分の政治的意見を唱えることはしない一般大衆。ボーカル‐マイノリティー(声の大きな少数者)に対する語。政治家は物言わぬ大衆の願望に耳を傾けるべきだという気持ちがこめられている。声なき声。

*2:こっちは勝手に作った造語