名前や性別なんてネット上じゃただの記号ですよ、エライ人にはそれがっ(ry

ま、あらすじを少し見ておくと良いでしょう。
http://blog.drecom.jp/akky0909/archive/686
↑これは、後日談
http://blog.drecom.jp/akky0909/archive/684
こっちが実際の議論?? に成っているところです。


無駄な論争だなぁと言うのが私の最初の感想。
私も「スズキトモユ」成る人物は知りません。(あ、こんな事書いちゃうとオレを知らないなんてモグリだね!とか言われるとヤだなw)


ネット上にある文章は「書いた人物が男か女か、若いか年寄りか? はたまた有名な人か否か」なんて事にこだわることに意味を私は見出すことができません。
なぜなら、誰もがその価値を交換可能な状態にあるからです。


ネットにおいて人が敬意を払わねばならないのはその人の文章からにじみ出る思想に敬意を払うべきであって、書いた人物、ましてや性別などに敬意をみせる必要など全くないわけです。


例えば、
この記事はいつも書いている姉とは違って妹の私が書いています。
などと書いた場合、それを信用するべき保証は何所にも存在しえないのです。(実際にはそんな便利な妹は居ませんがね)
例えば、HNを琴子なんてしてるけど実際には髭顔のオッサンだ!とか
琴子は本名で書いたけどちょっと恥ずかしいからHNにしちゃえ!ってそのままズルズルとか
実は、本名が宝塚も真っ青な雅でヤンゴトナキ名前で、普通っぽいHNにしてるとか、と言ってもそれを確認する手段も無いわけです。


じゃあ、何所で何を信用すればいいの?って問題になります。
それが、書いた人の文章でありそこからにじみ出る思想であるという帰結。


もちろん、Akky/吉田照彦成る人物がどのような人物なのかって言う物もわからない(むしろ、わかる必要はないでしょうし、人の全てを理解*1できるなんて言えるほど青くもないです)。
ただ、「求めよ、さらば与えられん。」という記事で書いた内容で判断するのみです。

『「正しいこと」というのは情報の正しさを表す言葉ではない』と言う意味でネットに流れる情報について理解して説明しているんだ。情報の正しさではなく同じ方向にベクトルを向けた文章こそが「正しい」という意味であり、結果的にはそれは同じ考えを持った人間をアウトプットしているだけ何じゃないか?
つまり「正しい」ってネットで言うのは多数派の意見であって、それに漏れちゃったマイノリティの存在は正しくないの? そう言う訳じゃないよね? ほら、やっぱり正しいことなんて言うのは世の中には無いんじゃないの?
だったら、自分の生きたい道をみんなに共感して貰えたら嬉しいよね。
引用に成るけど50年その芸が持ったって言うのはなにも芸がすばらしいからじゃなくてお客さんが喜んでくれたからだって書いてあったじゃないか、素晴らしい芸が長生きするんじゃなくて、お客さんが喜んでくれる事が芸の長生きで、喜んで貰えるために素晴らしい芸をやるんだって言う意気込みというか生き方に共感を持ったな。
と言う感想を沢木耕太郎の『バーボン・ストリート』を読んで持った。

と言う思想をかいま見て、ああ、この人の意見のこの部分に共感を持てるとか反感を持つと言った情動的な部分が生まれるべきなのだと思う。


その行間の意味すら取れないで、声高に「引用部の文字の大きさ」やら「書評には簡単な内容を添付しろ!」なんて言うのはオコガマシイを通り越して野暮や粗忽といった表現が妥当だと思います。


ネットにおいて、自分の名前を検索させるくらいなら書評の本くらいはアマゾンで検索した方が早いでしょう?

ましてコメントのレスに対して名前を書き間違えたからって粗忽ってのはいかがなものか?
意味論的に誰が誰に対して伝えようとしているのがわかっているのだから。礼儀としてスルーするのが社会人――だと思うんだけどな?


P.S.
引用は自己の主張を補強するものと、これから行う言及に対しての大前提となる論点部分の掲示の2パターンがあると思いますが、前者に対して文字の大きさを大きくする必要性は何ら感じません。

*1:よく、人から「つかみ所のない人」なんて言われますが、当たり前です。そんなに簡単に理解されちゃうほど単純な人間だとは思っていません。