差別をエントロピーという観点から考えてみるテスト

※以下、差別語と呼ばれる使用禁止表現が多数使われています。歴史学的考察のためで有って、差別を助長するための物ではないことを予めお断りします。*1


最近知ったことで恐縮ですが「魔女」というのは差別語なので、使っちゃイケないそうです。
んーってことは、「おジャ魔女」(←ATOKのトレンド辞書には普通に載ってる)とか放送禁止?(笑)
魔女っ子はNGで魔法少女はOKって方針だな……。
さて、ここで少し話題を変えて魔女の話をしよう。

セーラム魔女裁判とか

1692年1月の話しです。
およそ300年も前の話しですね。いつ頃かというと日本では江戸時代元禄の飢饉があった時期、ちなみにアイザックニュートン古典力学の書である「自然哲学の数学的諸原理」を著したのはそれより数年(5年)ほど前のことです。
アメリカの入植から50年以上経った頃の貿易港として栄えていたセーレムという一都市での話しです。
十代の少女数人が病に倒れたのですが、原因がわからずに医師は、「魔術によるものが原因である」と診断してしまい、それが、波紋を呼び魔女狩りにまで発展しました。
当時、約1150人の「魔女」が逮捕され、その内19人もの判決は有罪と下され絞首刑となりました。
当時のセーラムは、入植後の混乱期もあり、勢力争いの道具として機能したわけです。
後に、最初の病に伏した少女達は集団ヒステリーと判明したわけですが、魔女狩りにより犠牲となった何人もの命が失われたわけです。現在では犠牲者の名誉は回復された物の「セーラム魔女裁判」は米国の黒歴史となっています。
当時、有罪の判決をした判事の子孫は魔女狩りをテーマに彼の代表作とも言うべき小説を書いています。ナサニエル・ホーソーン(1804-1864)の『緋文字』がそれです。

「緋文字」とか

完訳 緋文字 (岩波文庫)

完訳 緋文字 (岩波文庫)

緋文字は日本では岩波版と新潮社版が有名ですが、岩波版をオススメします。何故かというと、岩波版の方には『税関』と題された有名な序文が加えられているからです。序文とはいえ60頁ほどもあり、内容的にも本編と不可分な重要な意味を持った文章も有るわけです。
話の内容はこんな感じです。

へスター・プリンは、夫が不在である間に「姦通」し娘のパールを出産しまいます。当時の厳格な清教徒ピューリタン)社会においてはそれは許されないことでした。彼女は監獄に入れられ、晒し台に立たされ、罪の印である緋文字、真紅のAの字を、一生胸につけることを義務づけられます。
そのことで彼女は、たいへんな軽蔑と差別を受けます。子どもたちからは怖がられたりもします。街はずれに居を構えて、彼女の特技である、繊細な刺繍によって日々の糧を得て、彼女は娘のパールとともに暮らします。病人が出れば出向いていって看護します。貧しいものにはほどこしを行ないます。しかし、当然受けるべき感謝さえ、受けられなかったりします。もちろん出て行くこともできたはずなのに、その地を離れれば緋文字なんて関係なく暮らせたはずなのですが、へスターはそこに留まります。それは、彼女が罪を償うのは、罪を犯した地においてでなければならないと、思ったからでしょうか? そこを離れて、何食わぬ顔で新たな生活をはじめてしまっては、罪をあがなうことができないと、考えたからでしょうか?

一方、へスターの「姦通」の相手である男も、その町にいます。人間でありながらたいへん神に近いところにいるとされ、聖者とあがめられるディムズデール牧師です。しかし誰も、まさかディムズデール牧師がへスターの姦通の相手だとは知りません。彼は次第に、厳しい修行に励むようになります。自分を罰するようになります。
そして、衰弱していきます。その結果、ますます多くの人にあがめられるようになり、彼としてはますます、周りに対する罪悪感を深めていきます。


「罪を公開することでそれを受け入れ、乗り越えたへスター・プリン」対「罪を公にすることができず苦しむ一方のディムズデール牧師」の物語です。

※ちなみに緋文字のAは「Adultery」の意味です。

生け贄という考え

生け贄というのが有ります。おおよそ生け贄には二つのパターンが有ります。神の怒りを静めるため、または神を喜ばせるために屠られる「供犠型」とどちらに属するのか不確定な境界線上の存在をスケープゴートとして排除することで社会の境界を明確化する「迫害型」に分けられます。
今回は、迫害型の生け贄について考えていきましょう。


システム論の用語を使うのならばエントロピーが増大した状態から生け贄にして排除することにより一時的なエントロピーの縮減を図るというのが生け贄の基本的なシステムだと考えます。
つまり、穢れの混在した状態(エントロピーが増大した状態)から、縮減させるためにスケープゴートとして、生け贄という存在を「表出」させるといった、システムを作り出したのだと想像される。
その悲劇によって社会的な状態を「浄化」させることをカタルシスすることが生け贄の存在意義であり社会的な機能だと推察される訳です。

カタルシスと差別・いじめ

本の学校なので問題となっているいじめも、カタルシスであるとミナされるのでは無かろうか? いじめ問題は個人レベルの情緒の問題ではない。「いじめは、クラスの秩序を形成するために必要な過程でありそれ自体が学級という集団生産の方式、あるいはスタイルで有るという*2」指摘もまた頷けると思う。
いじめられる生徒には、転校生、外国人、混血児、身体障害児、知的障害児など、学級の他のメンバとは異質な存在である場合だけに留まらず。勉強が出来るとか、先生にかわいがられると言った、価値的に上の子どもで有っても、クラス(社会)から浮き上がると、「ガリ勉」とか「ぶりっ子」などの烙印を押されいじめられる訳です。
つまり、構成社会の置いて異質であるとみなされるメンバは、同じメンバで在りながらメンバではないという曖昧さを帯びることになる。
ここで問題となるのが、通常社会を構成するためには、言い換えるならば学級の秩序を作るためには、このような曖昧さを保存する活動になるはずであるが、不登校や転校という形で学級から居なくなることを阻止しなければならないはずであるが、事実とは違うわけです。
つまり、いじめの本質的な目的は、社会構成上必要な曖昧な存在を作り出すことではなく、それを抹殺することに目的が有るのでは無かろうか?

不可触賎民とカタルシス

中世日本において、密教を媒介としてヒンドゥー教の影響を受けた触穢思想が輸入されました。
当時、癩者は最も穢れた存在として、家族を含めた一般共同社会から排除され、長吏(非人の頭)の支配下に置かれていた。非人は、犯罪者の処刑を行うなど、「穢れた人間」を扱う職人とみなされていたからです。これに対し、動物の死体処理を行う職人は穢多と呼ばれました。
では、穢れとは何か?
柳田国男は、聖と俗をハレとケと言う言葉で区別した。ケとは生命力である気(ケ)が維持されている日常性のことで、病気(気止み)などで気が枯れ、死に近づくと気が枯れる(=ケガレ)となるわけです。
つまりケガレとは生と死、ハレとケの境界線上に生まれることを指摘しました。
少し話しを戻してシステム的にハレとケ、そしてケガレを分析すると、ハレとケの間にある。つまり、生と死の間にある曖昧な状態こそがエントロピーが増大であり、ケガレを意味する訳です。
この増大したエントロピーの縮減の為に「祭り」または「祓い」と言う儀式を行うことが不可欠であったとまとめられるのです。
つまり、生死の境界線上の留まる職業であった穢多や非人が、嫌悪され、蔑視されたのとは対照的に、魂を完全に彼岸へと移行させる聖職者と病人を完全に生へと移行させる医者は崇高な職業として支持されたわけです。

エントロピーから見た差別

以上のことで、エントロピー縮減のために差別が行われ、排除されることにより、混沌から秩序へと移行する形を取るというのは理解いただけただろうか?
中世において日本ではケガレという思想で、西洋においては異端という意味で、社会構成に組み込まれた仕組みとして差別は行われて居ました。
近代においては、ナチスユダヤ人迫害、アメリカでの黒人差別、ヨーロッパ社会における植民地思想という形で受け継がれて居るわけです。
そして、現代においても色々なところで差別が行われていると思うのです。
人間が秩序を求める以上エントロピーの縮減は避けられないはずです。そのための機能は消えないのでは無いかなとちょっと悲観的な意見を述べてみました。

*1:なんで、わざわざ断らなきゃならんかな……。

*2:いじめ―学級の人間学 より