論考

http://ink.luck.jp/notebook/#N20050717より(7/17分記事)
巷の似非論客がこぞって参加している話題――。
「宗教とは信じること。科学とは疑ってみること。」
とという哲学的命題? についての論考です。
まあ、寝苦しい夜の思考ゲームとしては面白そうなので参加してみようかとw


そもそも、「科学(的)」とは何か? から話しを進めないと話しがごっちゃになってしまいますね。
私の考える科学的というのは3つの基準があります。

  1. 現実の事象を扱っている。
  2. 論理的合理性をもっている。
  3. 三者にも追試で確認できる。

以上の3点を満たす物を科学的と私は表現します。
別に、「根暗でオタッキーな、眼鏡を掛けた細い男が、なんだか理屈っぽいことを、数字やグラフで煙に巻きながら、難解な専門用語を使って人を寄せ付けないような超越的態度でまくし立てること――。」と考えているわけでは無いです。
ロジックさえ正しければそれこそ「妖精が私の仕事を手伝っているのよ」という説明も口先三寸で出来ますが、やはり科学的では無いですね。
端的な話し科学的な思考とは嘘をつかず人の嘘にダマされないようにする考え方だと思っています。

科学アレルギー的な思考方法

世の中には科学アレルギー的な人種と言う者が存在するようです。
どうも、科学アレルギー的な人種というものは『わかる』と言うことに特別な期待のある人だと思います。
そう言う人というのは、解るからにはもう一つも疑問になる余地もなく、全てくっきり解らなければならないと思っているんだと思います。
最新の科学と言うからには、あらゆる点についてきっちりと説明がついて、後に疑問は一つも残らないんだろうなと期待しているようです。
しかしながら、実際には物質とは何か?について語ったとしても分子の話しをして、原子の話しをして、素粒子の話しをして、クォークの話しまではたどり着けることは出来たとしても、それ以上の事は今のところ解らない、と言うのが科学的な答えなのです。
科学的であるというのは、解らないにたどり着くことを言うのだと思います。
彼は何故そういうことをしたのか。劣等感からさ。彼女は何故あんなことをしたのかな。嫉妬さ……。この世はなぜこうなのか。それは、神の意志によるものだ。
しかしながらこういう全て解るというのは物語や宗教での話しになる。
それは、真理ではなく一つの見解に過ぎない。
科学をおもしろがるというのは、わかることを求めるのではなく、わかっていくことを楽しむことだと思います。

信じると言うこと

信じるという考え方は、なかなか面白い見解だとw
しかしながら、科学的な定説というのは未だに色々と変更が加えられているわけです。
つまり、今まで信じていた科学的な定説が変更されるという現象もやはりあるわけですね。
例えば、私の学生時代では「活火山」「休火山」「死火山」という3つの分類があったわけですが、現在でも言葉自体は使われていますが重要な分類になっていない状態です。噴火の記録があるわけではないのにこれは死んでいるとか生きているとか決めつけることに無理があったんでしょう。
同じように、K・シュナイダーが唱えた火山分類も今の学校では教えていないのが現状だったりします。

  • トロイデ(鐘状火山)
  • コニーデ(成層火山
  • アスピーテ(楯状火山)

とか勉強した口なのですが、現在ではまったく教えていなかったりします。
他にも遺伝の勉強で教わったABO式の血液型の遺伝にも新しい事が発見されています。昔はB型とO型の夫婦の子どもはB型かO型しか発現しないのですがごく稀にA型の子どもが生まれる事があるというのです。A,B,Oの遺伝子構造が非常に似ており、A型遺伝子の一部情報が欠損したのがO型であるという物で、ごく稀にO型の欠損した部分にB型の遺伝子の一部が加わり、A型になってしまうそうです。
本当の親子なのにABO式血液型があわないことがありますか。
と、科学が進歩するにつれて今まで信用してきたことが覆されるのは仕方がないですし、現在の所不都合生が発見されないので「信用に足る」という基本的なポジションが必要なのでは無いでしょうか? 基本的には完全な信用ではなく、論理的な信用を置くと言うのが一番かも?