違いのわかる様になる話し。

哲学と思想が違うように、また、科学と似非科学が違うように、宗教と人生論が違うように、と言うような話し――

哲学とは

思想ではない

近所の本屋(少々大きめ)では、「哲学・思想」ってコーナになっています。明確に違うけど親戚程度には近い存在という分類方法ですね。琴子の考えでは思想ってのは哲学から「考える部分」を抜いた物を思想っていいます。
ちょうど、酒粕みたいなもの?
考える部分が「アルコール」とするなら、哲学ってのはちょうど日本酒のように風味や酒の色や香りなんて部分もひっくるめた物をいいます。それでもなお、考えるべき部分が残るのが日本酒。同じ酒造最適米から作られれいても、酵母(Sacaharomyces sake)の種類(協会601号とか1401号とかね)に応じていろいろな種類が出来るのと同じように。土壌とか風土に応じて考え方の基礎が異なるわけですよ。
だから、色んな思想が生まれるわけ。そして、その酒の生成過程で出来た不純物を酒粕というわけです。
思想ってのはそう言うもんじゃないかなって思います。
思想ってのは生き方の理論ですからアルコール分が入っていない。哲学はアルコール分が多いから読み過ぎると中毒症状に陥るなんていい方も有りかな(笑)

科学ではない

哲学と科学の類似点は非常に多いわけですが、一番の共通点は「普遍性」って奴です。科学の基本が「同じ条件で同じ事をやったら同じ結果が生まれるであろう」って暗黙の了解で行われているわけです。ただ、これって「未来」という物を「今」から「過去」までの条件と同じ事をするって帰納的推論が発想の元になるわけですよ。過去から現在そして未来が地続きであるって認識で成り立っているわけですね。
哲学ってのは、「普遍性」に対する枠組みがさらに一段大きい物を指すんだと思われます。科学が科学として成立する根本部分である、過去、現在、そして未来を疑うこと、ニーチェという哲人は「神は死んだ」で有名ですが、彼の思想の根本は「時制を疑う事」にあると思います。つまり、現在しか存在しないと言うことを考え続けた人であるって認識が妥当な評価ではないかと思うのです。
世界五分前説なんて理論がありますが、あれをさらに追究した人なのではないでしょうか?

宗教ではない

愛は哲学と科学を遠ざけるって事。
「愛」ってのは「科学」や「宗教」とは相容れない存在。「高学歴、高収入、ルックスが良い」から好きっていう理論に反発が起きるのもそのへんに原因があるのです。科学なんてのは計測可能で序列可能な物を対象にしますが、愛はそれらとは相容れない訳です。
信仰なんていうのがいい例、 「信仰」というものが「自己を取り巻く世界への愛情表現」である。と言う定義定義づけすると、宗教を切り売りするような事は出来ないのではないでしょうか?  つまり、「輪廻があるから」、「復活するから」、「極楽浄土へといけるから」宗教を切り売りした形で信仰するというのは既に信仰からはずれた位置にあると言えましょう。
故に、「個別論」と「個物論」に分類されると、個物論的に考える指向が「愛」なのではないしょうか?
およそあまねく研究という物は科学的手法を用いるわけですが、例えば漱石を愛する研究者は愛とは別の次元で冷静に分析する必要があるわけです。つまり、構成要素ごとに分割(個別)すると愛は消えるわけです。記憶が脳から生まれるというのは科学ですが、心が存在するというのは科学からは離れるわけです。

哲学は科学とは違う

科学の特性は個物を正面から受け止めることが出来ない学問です。いや、だから悪いとか言いとかの問題じゃなくてそういう前提の下に成り立っているだけの話です。
哲学は窮極的には個物である自己を対象としているわけですから、科学では哲学出来ません。構造は似ているけどね。
レイジするならば、科学では「死」という物を統計的、生物化学的に答えることは出来ますが、「私が死ぬ」という意味を説明することが出来ないって事です。