MOTTAINAIとかの否定的な話。

最近、思うことのひとつに「環境関連」のことがありますね。
3R(Reduce(減量)・Reuse(再使用)・Recycle(再生利用))とかって、実は作るよりもエネルギィがかかる場合もあるのですよ。
だれだっけ、経済学者だったか? そういう哲学を書いた人がいましたね。彼は、余剰という言葉で言ってましたが、同じことです。
1Lの水を作るのに10Lもの水を使うようなことって実際にあるわけです。いや、まぢで。
だから、何が何でもモッタイナイって言うのはエネルギー的には非常に「もったいない」話でして。
 
卑近な例を挙げますと、あれですね「バイオエタノール」なんかがそう。
「地表の循環炭素量を増やさないこと」って実際にはへんな考え方ですよね?
植物に固着した「炭素」をまたばら撒くことを「炭素を増やさない」と表現することの是非*1はともかく、このバイオ燃料を作るために米国ではトウモロコシを大量生産してバイオマス工場へ売られて食品として出回らず商品として価格が増加するという矛盾。本来食品としてその用を成すものが、余剰分が使われるのではなく、そのまま使われるため、製品としての価格が高騰するって事態は大きな矛盾をはらんでいると思います。
ま、生産者としては高く売れる方に売るって言う市場原理はあくまで真理であり正義でありますがね。
 
もう少し、この問題を広範囲に向けると、たとえば「食肉用の牛一頭を生産するのに必要な穀物量」なんかが挙げられます。そうですね、大よそ4000tもの穀物が必要になります。つまり、牛を育てるのは食料品の無駄遣いでありモッタイナイという理論ができます。これはアメリカの養牛を止めれば世界の食糧問題は解決する程度の問題。これ言っちゃうと国際問題になるから誰も突っ込まないけどね。クジラ止めるより牛肉止めたほうが環境や世界にやさしいって突っ込みはありだね。かといって、神戸牛とか好きな私は自分の持っている金で買うわけですから市場原理としては正しい。「価値を買う」という理論は資本経済において常に真理です。交換経済において環境というのは常に相容れないものでしょう。
 
MOTTAINAIというのは、切り詰めて言うと「物の本来の力を発揮していない」ことをさして言うことば。切り分け方如何によってはすべての物事がもったいないといえます。だから、琴子はMOTTAINAIというのは否定的な見方をしちゃう。神道な琴子は、「物の価値に於いて善悪」を置くっていう価値観がなじまないんだろうねぇ。神道の考え方って「物の存在そのものが力を持つ」っていうアミニズム的な思想だから、そこに人間の利用度による価値を認めるってのが違和感なんだろうな。
「もったいない」と感じるよりも「いただきます」って感じる思想のほうがなじむ感じ? 種々の味物(くさぐさのたべつもの)じゃないけど、調理していない食品を奉じる思想がなじむかな? 世界的な宗教の中でも「未調理の食品をニエとして奉じる宗教」ってのは比較的珍しいと思うんだけど、それが、人が食べられる存在である故の感謝、そして、食べられるまでに成長した天気や自然に関する感謝が供犠として成立する第一の理由なわけで……。

God is great, God is good. Let us thank Him for our food. By His hand we all are fed. Give us Lord, our daily bread. Amen.

なんていう聖句をたった一言、「6文字」で表しちゃう日本の言葉がすごいような気がする。
 
なんて事を、松屋で牛丼を前に手を合わせて「いただきます」と呟いてから食べ始めた大学生くらいの青年*2を見て思ったのです。

*1:表現はともかく、間違っているとはいえないからね。

*2:いい育ちなんだろうなと思います。私的には好感度大。