ラノベの箱庭

ライトノベル(以下「ラノベ」)でも主人公達の世界が非常に限定化されているいわゆるセカイ系は、箱庭療法言語化ではないだろうかと考えた。
登場人物、洋服・食べ物・小物、背景となる町並みや建物、鳥や植物、まちの名前までかっちりと決められた枠組みの中に設定されている事が多いです。
この模型のような世界で、主人公を含んだ登場人物が、モデルのように行き交いそして語り、行動する。
そして、これらが余りにも物語じみていると言うより、物語の原型(メルヒェン)を求道するかの如く作品が練られていると思うのです。
技術的に言うならば、会話の内容をみせると言うよりも、その会話で生まれる機微や感情の揺れ動きをその原型としているので、読者側に自分の体験や記憶を投影させやすいのではないだろうか?


逆に言うと、私の定義する「セカイ系」という物語がその原型を持って生まれている事を第一条件としているのだろうなと予想。
ターゲット層である若年層に向けて「世界を言語化する」一般的な方法としても最適なのではなかろうか?


サマー/タイム/トラベラー (1) (ハヤカワ文庫JA)

サマー/タイム/トラベラー (1) (ハヤカワ文庫JA)

サマー/タイム/トラベラー (2) (ハヤカワ文庫JA)

サマー/タイム/トラベラー (2) (ハヤカワ文庫JA)

そう言った意味で「サマー/タイム/トラベラー」などが狙っているのは限定された世界からの跳躍という意味において「世界」から跳躍を狙っているような感じでは有るが、原型としての「セカイ(と言う名の箱庭)」からの脱出は出来ていないと感じる。
頑張って回想形式を取っているが、彼らの夏に何を残したかと言えば、一人の少女の存在が消えただけの話しで構成世界からの脱出は果たされていないと思う。


世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド〈上〉 (新潮文庫)

世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド〈上〉 (新潮文庫)

世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド〈下〉 (新潮文庫)

世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド〈下〉 (新潮文庫)

古い作品に「セカイ」からの脱出を計った作品がある。村上春樹の「世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド」という作品だ。『世界の終わり』は理想社会なのか、それとも全体主義的な抑圧国家なのか。あるいは、近代化される前の社会なのか。ふたつの世界が併行して語られる意味はどこにあるのか。心とは何か。死とは何か。近未来の管理社会として描かれているものを、どう考えるか。そう言った意味で答えを一切出していない作品ですが、今のラノベを考える上でも重要な部分に触れている作品の一つだと思います。