雑感を含めてお伝えしております。

土日で数冊の本を読んだわけですが(もちろん紹介に値しない物もあるわけで*1……。)、ラノベの世界ではポストモダンが流行なんでしょうか?

モダン主義のマスコミと政治的な物

現行の世界は「モダン」「ポストモダン」「ヲタク」の三大人種に分類が可能だと思います。
社会学的な側面から見た三者の分類方法は、進歩主義的な押しつけ的啓蒙活動をするモダンな人々(いわゆるTVに出てくる「知識人」に相当する人々とそれに洗脳されちゃったかわいそうな人々)とそれに対立するべき、「ポストモダン」と「ヲタク」の混成部隊がWeb上で果敢にアタックを仕掛けているというのが現状だと思います。
ポストモダンとオタクの思想は似通っていると思うのですが、表示系のインターフェースが異なるため別人種という括りになっているのかな?
「モダン」な人々が、共同体幻想を抱いているのに対して、「ポストモダン」「オタク」混合軍はリバタリアニズムを標榜し活動してるわけです。
現在の戦況としては、混成軍の方が優勢的だと思われます。
共同体幻想が崩れかけているのが実情――
例えば、最近のニュースで考えてみましょう。


コミュニタリアニズム共同体主義*2が根底に流れているTVと言うものは、他人のプライバシーに立ち入る必要がある以上取りざるを得ないポジションなので仕方がないのでしょう。
問題点を挙げるなら、現在のマスコミが共同体の枠組みをとても広く扱っていて、国家規模の共同体主義(共同体=国家)という枠組みで物を考え始めたのが問題だと思われます。
声高に個人の自由は共同体の名の下に抑制されるべきだと叫んでいれば、危機感を覚える自由主義は黙っていられませんね、そしてコイズミさんの擡頭で新自由主義(曲解されたダーウィニズム)が唱え始められれば加速度的にマスコミとの対立も深まるのも理解できます。
私の取る立場はそのどちらに与するものでもありません。
「マスコミ」についてはその考えは30〜40年昔なら有効だっただろうと思いますし――
小泉首相については、サッチャーが取った政治活動をいままさに必死になって舵取りしてるブレアさんを少し勉強した方が良いと思いますしね(つまり、世界的には10年〜20年遅れの政治手法だと言いたいのですが)……。

ポストモダンとオタクの境界

実際問題としてポストモダンとオタクについて境界があるか謎――。どの辺で線引きするのか(現行オタクの定義が曖昧なのと一緒)
テレビ文化という大きな物語の終焉を迎えた以上、きっぱりと離別を宣言した人と、取捨選択的にテレビに依存している二つの人種がTVと言う「モダン」を中心に見た二つの人種なんだと思う。
ポストモダンはTVにも半分依存しているオタクを軽蔑するし、オタクはネットと同じように与えられた情報を取捨選択しているだけだと主張する。実は根が一緒の兄弟のような存在だと思います。

上記のような所が典型的な、「ポストモダン」と「オタク」の違いが出ているような気がします。


むしろ、言い換えるなら(テレビ至上主義な)「モダン」と(反テレビ主義な)「ポストモダン
」の二項対立から脱構築出来た人がオタクなのかも知れないね……。

さて、本題の最近のラノベについて語ってみる

取りあえず上記までの項目で私が考えている「モダン」「ポストモダン」「オタク」の三階層は理解いただけたと思います。
ここで、本題の最近のライトのベル事情について考えてみましょう。
80年代のライトノベルは「パーティ」主体のRPG風味なライトノベルの絶世期と言えました。例えばロードス島戦記、フォーチュンクエスト、銀河英雄伝説などもそれに当たるでしょう。つまりパーティという共同体を主体とした物語体系が主流だったわけです。
前二つの小説はファンタジーの体系を取っていて、「仲間」と共に関わり合いながら「主人公が成長」していくと言うパターン(ある意味での王道)を踏襲した国産ファンタジーのベストセラーですし、銀河英雄伝説なども自由惑星同盟に所属していたヤンなどは共同体からの抑圧に縛られながらその葛藤を書かれた作品です。
いわゆる「コミュニタリアニズム」形式な小説群なわけです。
それが、90年代を経て「個人」主体の物語へ変遷しているような感じを受けます。
例えば、有名な「キノの旅」主人公キノは各国に3日間だけ滞在します。そこでであった人とのふれあいを通じて主人公は成長する形式を取っているわけですが、主人公はコミュニティーに所属していません。あくまで、個人として見ているわけです。
他にも、「Gosick」と言う小説は非常に狭い世界(主人公ともう一人の女の子)との関係だけで世界を語る物語です。


これらの小説群はやはり新しい物語体系で「セカイ系」に属する形になるのでしょうか?
ターニングポイントである。「エヴァ」はギリギリでコミュニティーとの葛藤を描いていますが、後半に入り「個人と世界」の関係に移行していきました。
そして、物語のテーマがだんだんと「個人と社会の関係」へ移行するに従ってコミュニティーの閉める割合は減少し、登場する人物も極力何かの記号であるかのような「少年」と「少女」、「主人公」と「他人」と言った解りやすい形式で物語を進めていく傾向が増えていると思うのです。
コミュニティーと言う概念が否定(=テレビ社会に疑問が提示)され始めた時期に重なるようにしてライトノベルの物語体系も着実に変化し始めているのではないかと予想できます。


これをライトノベルの「ポストモダン化現象」と名付けておきましょう。
いずれライトノベルの「実存主義ライトノベル」とか出てきたときに備えて(笑)

補筆中

*1:閾値は低いですが

*2:本来的には、個人の自由は共同体によって抑圧されるという考え方、本質そのものは自由主義と変わるところが無いが、唯一個人の根源的な存在論レベルでの批判が行われるべき物です。