ブックフェア行ってきましたよ

昨日はブックフェアに行ってまいりました。
あ、趣味じゃなくて仕事で打合せとかお世話になってる会社が結構出店してるんで挨拶回り込みでね。
にしても年々規模が小さくなっているのは、本の値段が高くなってるからだね(謎
とは言っても、ブックフェアの目玉は絶版本を倉庫から出して売ってくれる即売会なのですよ。ええ、買ってまいりました。
一般書店ではなかなかお目に掛かれない、でも知る人ぞ知る「国書刊行会」が出店してましたので行ってきましたよ。
オカルトと言いつつ、真っ当な本も多数出してるわけですが、ま、グリモワール(grimoire)で重要な文献はほとんどこの会社が出してますのでオカルト本会社というイメージがあるんでしょうね。
そいや、Wikipediaでは『金枝篇』がグリモワールに書かれていてちょっと笑ってしまった。否定は出来ないけど、魔導書って分類はどうなのよ(笑
それじゃ、岩波の5冊のセット本の他に、国書刊行会の今まで出てるのを持ってる私は立派な魔女ですな。正気値*1が下がってる状態ですか……。
「法の書」とか「トートの書」とかアレイスター・クロウリーの本なら、立派な魔術書でしょうが、金枝篇はどうなんかなぁ。
 
ま、それは置いといて……。
久々に本に20キロ円投資して購入。
月末まではオトナシくしないと(謎
あー、DS欲しかったんだよーとか叫ぶのは後の祭りと言えます。

*1:TRPGのクトゥールのサニティポイントの事

ぶれることとぶれないこと

年をとると悪い意味でぶれない人間になると思いますよ。
人はそれを「頑固者」と呼称しますが(笑

やはり、いつも誰かと一緒にいて、誰かとつるんでいる人は、自分の意思で動いているようで、実は誰かに引っ張られたり押されたりしているだけ。逆に、いつも一人でいる人は、自分と他者との摩擦も距離も感じる必要がないため、自分自身を見つめたり、自分が「どうあるべきか」を確認する必要すらなくなって、ただ自分のバリアに逃げ込んでしまっているだけのように思います。

 
天下の賢人「孔子」ですら、40までは迷いに迷ってぶれまくりの人生だったと申しております。
論語の為政第二には、「子曰、吾十有五而志於学。三十而立。四十而不惑。五十而知天命。六十而耳順。七十而従心所欲、不踰矩」とありまして、孔子さんなんかは、学問を目指そうって思い立ったのが15歳ですよ、高校上がるかあがらないかくらいの年齢で学問を修めようなんて考えを持つ人間なんてほとんどいないし、大学入ってやっと研究職を目指そうって考えるくらいです。
そんな孔子が自分の哲学を持って「ぶれない」人間になったのは40歳ですよ、だから、40歳を不惑というのです。
普通の人なら50や60で調度くらい、頭の思考が凝り固まって頑固になってしまう年齢。これが不惑の正体だったりして(笑
 

余談ですが、孔子のこの文章をサラリーマンの一生の事だって喝破した友人がいまして、彼曰く「中学三年の15歳でもう少し社会に出たくないと高校・大学を目指すのが志学だ。んで、22過ぎて会社に入って先輩や上司に面倒見てもらって、やっと一人前に仕事をこなせるようになる一人立ちの30歳が而立だ。そして、40になると再就職も難しいから転職を考えなくなるのが不惑だ。そして、50にもなると今のポジションからどの位まで役職が上がるかわかる。つまり、自分の天命を知るわけだ。そして、定年過ぎて年金がもらえるまでは会社に置かせてもらえるかもしれないが、うるさいことを言っていると煙たがれるので、年金もらえる65くらいまでは誰の言うこともウンウンとうなずいておくのが耳順だ。そして、人間70にもなるとボケが出てきて自分の心の赴くままになってしまうのが従心というのだ」と申されておりまして、これはこれでアリだなと思ったわけですが……。
 
自分はこれで良いのか?って常に自問する人間は「ぶれる」と思いますよ。
常に変わろうとするのもぶれるって事ではないでしょうか?
だったら、常にぶれ続ける人間でありたい。でも、これもまた「ぶれない」生き方かもね。
 
私は、常に自分の意見がベストだって考えられるほど器の大きくない、せいぜい自分の考えがベターかモアベターって考えの小心者の提案。