ミームに付いての言及

昨日は「ネットの優生学」というやや大げさなタイトルを使いました。それにインスパイアされたお話をしてお茶を濁しましょう。
ミーム」ってのがあります。
創案者の著作は残念ながら未読ですので、その論全体に対する反論とか出来ませんが、「情報の伝達の仕組みを遺伝子に例える」ってのはとても面白い発想だと思えます。
日本では、「文化的遺伝子」と称されますが、我々が常に接している情報は、常に変異をしています。
その変異で、環境に耐えた物だけが「価値ある情報」として生き残るわけです。
人間自体に影響を与えませんが、人間という情報体に言わば「寄生」して感染する仕組みというのは非常に情報の原理を的確に表しているのではないかと思います。
 
ここで問題になってくるのが、現代の人工生命倫理と同じことが言えるのではないでしょうか?
例えば、体外受精の提供者を選ぶに当たって、両親は「デザイナーズ・チルドレン」をしてくれるクリニックで遺伝子の特徴を選べることに疑問を持つのではないでしょうか? 聡明な若い女性の「卵子」を広告すればお金になる。もちろん、そんな極端な話しではなく、普通のカップルでも赤ちゃんの性別などの情報を求める場合だってあるかも知れません。これらは、価値あるように響きますが、これを行うと即刻、一人一人の子どもがそれ自身に価値を持つという原則が転覆するのではないでしょうか?
前ローマ教王ヨハネ・パウロ2世は「奇形や遺伝病の選別が死刑宣告のようなものになってはいけない」と告げています。
 
私は、キリスト教に帰依してませんがこの警告は非常に示唆に富んでいると思います。
 
人間に限らす、すべての物事には、ある側面に於いて「明らかな悪く」また、ある面は「明かに良い」と考える傾向があります。現在まで綿々と受け継がれている哲学すら、その根底において共通した考えがあります。
例えば、近視眼的で反応も遅く聡明でない人間は、炯眼で俊敏で聡明な人間よりも「明らかに悪い」という見方が哲学に存在します。
社会で「認められている」人間を多数出すために、恵まれていない人を排除するというのは正当化できる物では決してあり得ません。
  
第一、私が例えとして挙げた「良い」「悪い」は果たして正統な考え方か? そのように疑問を持つと、正当化することは出来ません。
実際に、それが「良い」側なのか「悪い」側なのか、誰が判断するのか? その判断に誤りがないのか?
 
物事の善悪は人間の価値によりますが、それを決めるのは決して個人や小さい共同体であってはならないのです。
世の中に哲人は居ません、プラトンの唱える理想社会はそれ故、永遠に到来しないのです。
「私」と「他者」がシノニムに成り得る事は、決して有り得ないのです。