母国語の重要性とか思想

ぶっちゃけ、日本語に不自由している人は極東ブログは見ないかもなーと思いつつメモ
言語の第一義は「コミュニケーション手段」としての言語だと思います。
第二義に「意思伝達」があると思います。
ネットワークの階層モデルを例に取ってみましょう

ネットワークの階層モデル(インターネット) 言語の階層モデル
アプリケーション層 コミュニケーション
トランスポート層 意思伝達
インターネット層 環境
ネットワークリンク層 手段
物理層 言語

こんな感じに成るのでは? と思います。
言語という通信手段があって、それを伝達する手段として、電話であったり、対面で会話であったりという手段が来て、そこに環境(場所、や相手との立場とか)というレイヤーが付随します。これらの下位階層から初めて意思伝達というのが生まれるのでは無かろうかと、ただ、これは一方的に伝えると行った一方通行的な使われ方だと思います。そこから初めてコミュニケーションという意思疎通に繋がるのでは無かろうかと考えるわけです。
残念ながら、現代人はコミュニケーションに異常があるように思います。意思の伝達は出来るのに疎通が出来ない状態。階層間のデータ移行が上手くいっていないと言う印象です。
そう言った意味では、日本語の学習も含めた下位階層に対する働きかけも視野に入れた能力獲得が必須だと思うんですがね……。
まずは、ボキャブラリの貧困が上げられます。ボキャ貧などと一時期笑い話にもなった人もいましたが、朝の電車に乗ってみると笑えた状況にないことが解ると思います。
通勤時間よりも通学時間に会わせて乗ってみてください。
学生達の会話の何とボキャブラリの貧困なことか!
「すげー」と「まじ」と「チョウ」と「ヤバい」いう単語しか使われていない会話とか散見しますよ?
あれで、コミュニケーションが出来るって言うのは一種の超能力ですか? >多分ニュータイプなのでしょう(笑)

論理的で音の響きのよい日本語の名文を繰り返し音読・暗誦・筆写せいとか、無意味だと思う。言葉というのは、まず誰かの言葉だからだ。言葉を愛するのではない。その誰かを愛することだ。愛というのは単純に言えば抱きしめることだから身体というものが要るのだが、不思議なことに愛というのはそこを少し超える。少し超えたところに肉声があり、その人の魂の声というものがある。

には半分賛成できます。特に『日本語の名文を繰り返し音読・暗誦・筆写せいとか、無意味だと思う。』と言う部分です。細かい説明も出来ますが簡単に言うと言語は暗唱ではなく獲得するものですから。
極東ブログの元となったのがArchives - 内田樹の研究室こちらだと思うのですが、こちらも日本語の重要性については同意できますが手段が賛同できかねます。
名文を繰り返すことによって得られる事もあるでしょう。ですが、費用対効果を考えると授業なんかでこんな事されるのは、危険でありはなはだ迷惑としか言いようが無いです。


英語よりも母国語を勉強しなさい、だって、一番生活で使うのは母国語なんだから、母国語を使うと言うことは意思疎通をする手段なんだから相手に解りやすい表現が出来るように色々な物を見聞きし語彙を増やしていこうよ!


と言うお話――