トラバスパムの効用点

なんかね、2005年の10月あたりにトラバスパムが来てね、、、
削除するためにその日のデータをはてなでは開くじゃないですか。
 
「あ〜、懐かしい。こんなこと書いたなぁ〜」って記事を読んで感慨にふけると。
 
部屋の掃除をしていたら昔のアルバムが出てきて、「あー、あのころは……」って感じ?
自分の記事って検索で探すことは歩けど、アトランダムにデータを表示するってことはないよね。
 
もうひとつあった、Googleで検索したら自分のサイトが2枚目当たりにひっそりとヒットしてるとき。
思わず開いちゃうね!

アドヴァイスは「指摘」なのか「侮辱」なのか

まったくもって生活圏というか哲学が違うので面白い。
多分、自分がモヒカン族的だと思うのはこういうとき、「指摘」ってのは「人格」ではなく「個々の状況」に対しての、新しい視点からの提案や改善案だと認識するからなぁ……。
逆に、指摘をするときも同じで「その状況についての意見」であって人格否定じゃないつもり。
てか、人格攻撃の場合はもっと辛辣かつ悪逆極まりないいい方します。

基本的に人からアドバイスをされるということは、自分という人間の在り方を否定されていると捉えることが出来るため、その言い様がどうあれ、こちらの受け入れ態勢が出来ていない場合には、不愉快な気分にさせられることが多い。そこで聞き手が反発心を覚える態度に対して、第三者から人間として狭量であるという謗りを受けるかも知れないが、その反応も極めて自然なことであると感じている。

ヘボメガネ一進一退「アドバイスを聞くときの姿勢」7/11の記事より

狭量の誹りはしないけど、多分持っている哲学が大きく異なる。とは感じた。彼の哲学を分析するとこんな感じ。

  1. 行動は自分の今までの生き方で最適なものを選択している。
  2. 他者は“私”を“私”以上に理解することができない。
  3. 故に、現状の“私”が行なう行動は、“私”にとって最適な方法である。
  4. だから、他者が私にアドバイスをするのは、私にとっての最適はありえない(のではなかろうか?)

って哲学なんだろうなと推察。この理論は真実の側面をあらわしているとは思う。
 
倫理における第一理論として「己が欲することを、他者に施せ」というのがありますが、誰だったか忘れたけど「己が欲することは、他者にとってして欲しいことではない、(なぜならば)趣味が違うから」ってジョークを言い放った人がいましたねぇ。

ブクマでご意見求む

人格否定と思われたく無いのでトラバは打たないでおこうかな(笑
自分の流儀には反するけどね(謎
 
ほら、こういう言説もあるしね。
個人的には、意見が個人否定で受け取るぜ!って人のところにわざわざ火種もって行くほどお人よしじゃないので。
あらかじめ宣言されているようなところで、メッセージ送る気は全く無いのよねー。

自分はリンク無き批判って卑怯というか悪いイメージがある。それは当人の知らないところで陰口を叩いて盛り上がってる状況を連想するからだ。いくらブログがオープンであろうと当人からは見えない(実際は気づいてないだけだが)所で批判されてたら気分が悪いと思う。反論の余地が無いし自分はされたくない。